波路を築く

アニメの感想&批評

ユリ熊嵐 

百合ではない百合

概要

  • 2015年 冬アニメ
  • オリジナルアニメ作品
  • 全12話
  • 監督:幾原邦彦
  • アニメーション制作:SILVER LINK.

はじめに

 コミック版、公式完全ガイドブックは未読。あくまでアニメのみを観たうえでのレビューとなる。監督は『少女革命ウテナ』などで知られる幾原邦彦

世界観

 タイトルにもあるように、本作は紛れもなく百合アニメである。簡単に説明すれば、百合とはヒロイン同士の恋愛を描くジャンルである。しかし、本作は従来の百合アニメとは一線を画したものである。これを論じるため設定から述べていく。

 ある時、突然地球上のクマが暴走状態となり人間(ユリ)を襲うようになる。その後、クマから人間の世界を隔離するための巨大な壁である『断絶の壁』が築かれた。作中で登場するキャラはほぼ女性であり、熊はクマ、人間はユリという属性で表現されている。このように、表面的に見れば、男性という記号から遠ざかった世界の中での物語という点では、従来の百合作品の構図と似ている。だが本作では、性別という概念が極限まで薄められている。「百合」というものは、物語世界から「男性性を取り除く」こと、すなわち「本来いるはずの男性の不在」があって成り立つジャンルである。しかし性の存在が希薄な本作は、従来の百合アニメとは異なり、男性性を取り除くという意図から外れている。そして、もとから男性が存在していない、あるいはその存在が希薄であるのなら、相対的な女性性も自然と取り除かれる。また、単にクマ=男性、ユリ=女性という構図を取れるというわけでもない(詳細は後述)。そのような世界の中でキャラクターが動くと、結果として、男性女性という概念にとらわれずにキャラクターが人間の本質を表現することが可能となる。ここに、百合であること、言い換えれば性の概念を無くすことの必要性があったと考える。

 果たして本作が表現した人間の本質というものは、「暴力」に集約されると考える。クマにはユリを食すという生理的欲求が存在し、時にはそれが愛情の歪んだ形として表現される。本能としての捕食の衝動は、まさに動物の持つ心理的な暴力性を形容していると言える。では、この世界ではクマ=男性でユリ=女性なのか。確かに、どちらかといえば暴力は男性の属性であるという観念は、比較的世間一般で共有されているものである。しかし一方のユリは、熊に対する対抗策として銃を持つ。捕食だけでなく銃も、暴力性の暗喩として解釈できる。それに、ユリを食べたいという衝動を抑えているクマには、暴力を抑える理性があり、この点においては非暴力的である。そのため、単にクマ=男性、ユリ=女性という構図を取れるというわけでもない。また、「暴力」は一個体に限った話ではない。例えば、『透明な嵐』という、ユリの集団による個人の弾圧を指す用語がある。この『透明な嵐』は同調圧力やいじめといったものを想起させるような、一種の集団による暴力である。そして、同調圧力により空気の読めない者を排除するという暴力は、クマ陣営にも存在することが中盤で明かされる。このように、性という概念を極限まで排除し、ユリとクマの理性と感情の差もほぼ存在しないこの世界で描かれるものは、「暴力」という人間の本質である。それを人間が持つものとして見つめなおすために「百合」の構図を取ったのであれば、その試みは成功しているように感じられる。

 「百合」の構図を取ったことによる利点はもう一つある。本作のストーリーを端的に表すと、「例え人々の意思や社会のルールに反したとしても、自身の『好き』を諦めずに貫き通せるか」といったものだ。つまり、「純愛」を描いたストーリーである。そこで、本作が人間同士の「純愛」を表現するために取った手法が、性の概念を無くすということだ。広義では、「純愛」とは自己犠牲を厭わない愛や、肉体関係を伴わない愛といった意味がある。そこに、生物学的、本能的な男女間の恋愛という概念が入り込む余地はない。同様に本作も、性の概念を無くすことで、キャラクター同士の愛に性愛という概念を極力排除している。「百合」であることは、「純愛」を表現する上で打ってつけの基盤となりうるのだ。
 

テーマ

 本作が何をテーマにしているのかという問いに対する答えは、おそらく人によって様々だろうし複数答える人も多いだろう。だがその数あるテーマのうち、「愛」や「友情」といったもの、少なくともルーツを辿ればそこに行きつくようなテーマは誰しもが思いつくはずだ。だから、ここでは敢えて「愛」や「友情」から離れ、自分なりに解釈したテーマを童話という観点から述べる。

 本作は作中の童話『月の娘と森の娘』の構造を模っている物語であり、そもそも本作自体が童話調でもある。童話というのは、大人が子供に読み聞かせる物語のことであり、その内容は抽象化されているものも多い。そして、子供たちは童話を読んで、美的感覚、他者の存在、社会の構造などを少しずつ知っていくのである。そこで私は「社会の構造」の部分に注目し、社会の分断、異文化の対立など、本作には社会風刺的なテーマが数多く存在すると考える。

 『断絶の壁』によって分け隔てられた世界は、価値観の違いによって分断された国家や都市を暗喩している。宗教の違いなどと置き換えても良いだろう。また、壁に隔たれた二つの世界という構造に限らず、同調圧力によって異質なものを排除するという社会も至る所で見られるものである。要するに、本作の世界観は社会の構造を抽象化したものに他ならないということだ。三人の主人公(銀子、るる、紅羽)は、そんな社会に阻まれながらも、「真実の愛」を求めて奮闘する。つまり、本作は同調圧力や異文化への差別意識といったものに対するアンチテーゼととれる作品であり、社会風刺的な側面が強い。まさに、童話の目的に即した作りになっているのだ。ぜひ、作品が持つテーマに注目しながらじっくりと鑑賞して欲しい。

ストーリー

  • 修正中

欠点

 気になる点と言えば回想の演出だろう。回想だらけという感想をよく耳にするが、過去の断絶や事件の真相、友情の再構築などを骨組みにしている以上回想が多いのは仕方がない。そう考えれば、本作の回想の回数は適切な範囲に収まっている。それでも回想がかなり多いと感じてしまうのは演出上の問題に他ならない。本作では回想シーンに入る前に「カイソウ」と書かれた一枚絵を挟む。例え一瞬のフラッシュバックに対しても、この演出を用いていることがある。例えば、第十話、主人公がクラスメイトから逃げるシーンで回想が挿入されるが、セリフはたったの二言で、しかも人に追われている今の状況とはほぼ関係ない内容である。だが本作は、本来回想を挟む余裕など無い場面にも回想を挟み、緊迫感を減少させている。第十二話。ユリ裁判の途中、紅羽は純花のことを思い出す。たった思い出すだけなのに「カイソウ」演出を用いている。このユリ裁判のシーンは、最終回の盛り上がりの場面、いわばクライマックスである。そんな場面で、わざわざこの演出を入れる意味が分からない。このように、「カイソウ」演出は視聴者を盛り下げるのに一役買っており、まさにメリットなしの状態である。他にも、一つの過去を回想する場面で、小分けして繰り返し「カイソウ」演出を用いている部分もある。この演出さえなければ「回想は一回だった」で済むのだが、演出が視覚にも聴覚にも作用する以上、回想は何回かあったと印象付けられてしまう。ただでさえ演出に違和感を覚えているのに、それが繰り返されたされたとなると、くどいという感想しか浮かばない。

 もう一つ気になる点は、初めて壁を超える紅羽の動機が弱いことだ。童話を書いた母の子であるとはいえ、クマは悪という価値観は刷り込まれているはずだ。実際、銀子の記憶をなくした瞬間にはクマを拒絶している。そのため、もともと紅羽はクマを拒絶する性格であったということだ。そんな紅羽が、壁を越えれば友達がいるという母の助言を聞き、壁を隔てている『友達の扉』を素直に開けるだろうか。少々厳しいものがあるだろう。また、動機というものはなく単なる好奇心で壁を越えようとしたという仮説も、クマを拒絶している時点でありえない話だ。そのため、やはり壁を超える明確な動機は必要だろう。紅羽の動機を明確なものにするには、例えば集団に虐められ人間社会に絶望し、似た境遇のクマの存在に興味を持ったというような紅羽の過去の描写が必要だ。だが、本作にはそういった過去が描かれていない。紅羽と銀子の出会いはこの物語の根源とも言える部分なので、紅羽の動機づけをもう少し突き詰めて欲しかったところだ。

総評

 寓話として無限大の解釈が可能ながらもストーリー自体は分かりやすい。難解というよりは遊戯的なセンスを楽しむ作品。人間の根源的な部分や社会の構造を想像力豊かに描き、ストーリーの完成度も高い意欲作である。


評価:★★★★★★★★★☆