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アニメの感想&批評

映画 トロピカル〜ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪! 感想

映画 トロピカル〜ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!

基本情報

 

はじめに

秋の季節となりました。記事をしばらく書かなかったのは、大して忙しくもないのにも関わらず大学の授業やら何やらにかこつけて、サボることの正当性を自分に言い聞かせていただけです。決して作品に触れていなかったとか、アニメから離れていたとか、そういう理由ではございません。申し訳ございませんでした。思ったことをそのまま口に出す感想の題材として、今回は映画トロプリを選びます。ちなみにプリキュアの映画を劇場で見るのは初めてです。

ネタバレ全開です。
 

感想

現実の季節とは裏腹に、平常通り常夏模様のトロプリ主人公、夏海まなつである。いや、沖縄の街がモデルと言われているあおぞら市は実際に暖かいのだろう。そんなわちゃわちゃ気分のトロピカル部一行が向かう舞台は、一面銀世界の雪の王国「シャンティア」だ。シャンティア王国の王女「シャロン」は、次第に心の冷気を幽かに醸し出し、やがて堕ちる。凍てつく花に寄り添って、氷を溶かすことが出来るのか。

そんな感じの映画トロプリであるが、今回はゲストキャラとしてハートキャッチプリキュアの面子が登場である。心の花のようなハトプリ要素もちょいちょいある。そして、脚本はプリキュアおなじみ成田良美氏である。ハピチャ以降プリキュアの脚本を受け持つ機会は減ったが、ハトプリでは8話ぶん書いているらしい。やはり、ハトプリ勢のキャラクターの描きが上手い。

未来予想図で子供がよく書きそうなテクノロジーを感じるビデオレター式招待状で、シャロン戴冠式に招待されるトピ部。そして、列車でワープするような演出。御伽噺みたいだとまなつは言っていたように、この“御伽噺”というキーワードが、個人的に結構大事に感じる。

ファンタジーなシャンティアは、美術も対照的である。鋭い光が射し、現代的な建物がずらりと並ぶあおぞら市に対し、シャンティアの雰囲気は不気味なほどにほんわかしすぎている。後にシャンティア王国が一度滅びた冥府だと明かされるが、このシビアなサプライズはよく効いていたし、我々大人の視点で映像表現を振り返ってみると、型破りな世界だと思わせる描写は確かにあった。

常夏で生まれ育ったまなつは、雪にシロップをかけてそのまま食べようとするほどに、冬の世界を知らないので、大はしゃぎである。さすがに雪にシロップかける中学生いねえだろ……と突っ込みたくなるが、このあたりは映画プリキュアらしくてむしろ好きだ。70分という短いフィルムの中で、フル尺+αの変身シーンや必殺技シーンを入れつつ、子供向けのエンタメ要素を存分に組み込み、お話を描かねばならない。このまなつのアホさ加減で、ちょうどいいのだ。雪は衛生的に良くないという、みのりん先輩の注意付きである。

子供向けと言ったが、シャロンのCVは女優兼声優の松本まりか氏である。シャロンは劇中で豹変するのだが、仮面と真実を使い分ける演技は、正直なところあまりハマらなかった。監督によれば、「プリキュアとほぼ同年齢でありながら、複雑な状況に置かれている設定、そういったところをしっかり演じられ、さらに、プリキュアのような可憐な女の子の声であってほしい」とのことだ。なるほど。自分はうえしゃま大好きなので、ハーモニーのミァハ、カリギュラのμ系の上田麗奈が見たいと言って安直に起用するが、元々は大人びたお姉さんイメージなので、中学生ではないよなあと勝手に納得した次第である。パンチ効きすぎてもかえって毒になるかもしれない。

本作の主人公はローラである。物語前半は、ローラとえりか、ローラとシャロンという二つの関係性を軸とし、さらに二つのストーリーが相補的に絡み合い、構造的には見所があった。ローラを一番近くで見ていたまなつは、彼女の不安や苛立ちの原因を適切に汲み取って適切な助言をし、役割的には彼女のサポートに徹していた。結果的には、二つの関係性の悶着状態を良い方向へと導いたが、このようなクレバーな役割はTVシリーズではなかなか見られないものだ。それも含め、劇場版の醍醐味である。

戴冠式のゲストとしてステージに立つ予定だったローラたちのコーデを決める段階で、まずはローラとえりかの諍いである。言いたいことを思わず口に出してしまう性格はお互い様で、例えそれが相手の気分を損ねることがあっても、その状態を客観視する余裕のないヒートアップ状態に、時にはなってしまう。それゆえに、第三者の指摘、助言が必要なのだ。まなつとつぼみの役回りはそこにある。

“らしさ”を存分に発揮した個性的なコーデは、ファッションデザイナーを夢見るえりかの意見によって、一度は棄却されてしまう。目立ちすぎ、ステージに上がるのはローラだけではないと、これらは間違いなく正論である。それがローラの反発を生み、仲たがいする。まなつが陽気に運んできたアイスには目もくれず、ローラは立ち去ってしまう。ここからは、キャラクターのペアが様々な形を帯び、相互に関係を与える群像のような構図になる。その中で、メインストーリーはローラとシャロンのペアに注力して描かれる。

ローラとシャロンは、互いに王女になる(なりたい)もの同士として打ち解け合う。笑顔の国を願うシャロンは、ローラにも幸せを分かち合おうと指輪に祈りを込め、ローラにプレゼントする。託したものは目に見えるものだけではなく、歌もまたそうである。これらが後々キーアイテムとなっていくのだが、シャロンが真実ローラの幸せを願っていたことが後々明らかになって、心暖かい気持ちになった。

陽→陰への切り替えもスムーズで、ここでローラの強がりと寂しさといったものが、鮮明に描かれるストーリーとなる。プリンセスとして責務を果たす決意に対する不安、祖国を滅ぼされ、襲撃から一人逃れたことへの寂しさや怒りといった負の感情は、これまた本編中ではあまり描かれなかった側面だ。そしてローラは、鏡映しのシャロンの心の奥に強い違和感を感じとる。シャロンを切り取る画角は斜めったりあおりの構図だったりと、不安を煽る描写となっている。

まなつとえりか。本当は寂しい気持ちが心の中にあって、強がって生きているというえりかの指摘。かつて自分が抱えていた問題に幾度となく向き合った彼女は、先輩らしくローラを適切に見据えている。二人の会話を経て、まなつは、ローラといることが楽しいという想いから、ローラに寄り添うことを決める。

そんなこんなで、互いの立場に寄り添った二人は仲直りである。ローラの個性を尊重しつつ改善案を出すえりかのデザイナーとしての実力も発揮された。えりかの言う「つぼみのように間近で見て分かってくれる人」は、ローラにとってはまなつになる。

場面は変わり、これまで伏せられてきたシャロンの闇、シャンティアの真実といったものが徐々に明らかになり、重苦しい雰囲気が押し寄せる。シャンティアは一万年前に滅びた冥府であり、次期王女であったシャロンは全てを失った国家を眺め、そのまま絶命した。彗星の力によって目覚めたシャロンは、どのような手を使ってでも新たな力で国を再生しようとする。

ここで変身シーンであるが、俺は劇伴オタクなので、フル尺大画面と映画館特有の音圧との相乗効果で引き込まれて感動してしまった。映画全体としても、様々なジャンルや楽器を駆使した劇伴は、異国の地な感じ全開で良かったのではないだろうか。ハトプリ変身シーンもオケ融合でガッチリ仕上げてきたの、まさに映画スタッフのやりたいことだったでしょ。

雪の王国の再建に囚われたシャロンは、他人を傷つけることを厭わず、無情にも怪物の力を奮っていく。互いに幸せの国を創ることを望み、友好関係を約束したローラとの対比として、シャロンの拭いきれなかった後悔や諦念が荒れ狂った心の闇を作り出し、大吹雪となって現れる。ホラー的な演出は従来のプリキュアシリーズを振り返ってみても異色であった。

後悔と言うには、仮に時が戻ったとしてもシャロンの力ではどうにもならないような理不尽さだった。そのため、女王として家族や国民、そして美しい国を守れなかったと述べる彼女の重責には、計り知れないものがある。一人で抱えるには、あまりにも重すぎた。

シャンティアに呼び込まれた人々が「誰かを笑顔にすることが出来る人」というのは、シャロンの砕かれた理想を表現しており、切なさが込みあがってくる。愛を知り愛を与えてきた者であるがゆえに、全てを奪われる理不尽への抗いを諦めきれない。逆に言えば、笑顔で溢れる世界を望む心は自身の性質として本来備わっており、それを受け取り叶えてくれると信じ切れる存在がいれば、それは理不尽を飲み込むための鍵となり得る。

やはり、手を差し伸べたのはローラであった。故国を滅ぼされた悲しみを持つ者同士、幸せの国を望む者同士、友達同士。同じ思いを持つ者であるが、ローラは生者で、シャロンは死者である。かつて葬られた国の全てであるシャロンの彼女の幸福を叶えるために、生者であるローラが寄り添い、何が出来るのか。

本作は、心の花を溶かすキーアイテムとして「幸せの指輪」と「歌」を掲げているが、いずれもシャロンがローラに託したものである。本当は止めてほしかったというシャロンの内なる想いに、説得力がこみ上げてくる。次第に彗星の力が弱まり、シャロンが望んだ理想郷は氷を溶かしていく。同時に、その理想郷が永遠でないことが示唆されて、別れの物語を前面に押し出す。

シャロンが望んだ笑顔の国、シャンティアにも春が訪れ、一層美しい世界となる。その世界は儚くも終わりを告げるが、そこにあった幸せや笑顔は虚構ではない。未来を見据えるローラ達のカーテンコールは、現実を受け止めつつも、シャロンやシャンティアの想いを受け取り、その存在を確かなものにする。

下を向いて咲くスノードロップは、上を向くことはないけれど、希望を象徴する花である。死者であるシャロンの奇跡は間も無く終わり、シャロンという存在は消えてしまうが、果たしてそれはシャロンが存在する前の無と同等であるかと言われれば、否と答えるだろう。想いは、未来へ繋がっていく。

時を超えて想いは繋がっていくという命題は、情緒的であり、大切であると思うのだけれど、「死者の希望の実現は死者の幸せとなり得るか」を考えたときには、多かれ少なかれ哲学的な要素を認めることが出来ると思う。主体は消えてしまったが、主体の想いを受け継ぐ者はいる。かくして、死者の想い恒久性を認めることが出来れば、シャロンがローラに願いを託すことがそのまま彼女の幸せに直結するという風にも考えられる。

終わってみれば、シャロンの過去は重く、シャロンやシャンティアともお別れといった、ビターづくしの映画だった。先ほど「御伽噺」と言ったが、シャロンのように、理不尽によって大切を失い引きずってしまう人は、現実のどこにでもいる。なかなか歌一つで救いになるというわけにもいかないだろう。だが本作は、虚構の世界に手を伸ばすことで、逆説的に「生者として出来ること」を我々に説いている。シャロンやシャンティアが滅んだ運命を変えることも無ければ、時を戻すこともない。本作は、夢物語を描きつつも現実を見据えた物語であり、ただ夢を虚構で終わらせず、そこから得られる本当の意味で大切なメッセージを示しているのだ。

初めてのプリキュア映画は大変面白かった。プリキュア映画自体は、同監督の春のカーニバルとハピチャあたりの映画を数本見ているのだが、本作はそれらと打って変わってビターな味わいだった。変身シーンはまさに劇場に来て良かったと思えた瞬間で、フル尺変身を採ったスタッフさん、ありがとうございます。