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アニメの感想&批評

フラ・フラダンス 感想

アニメ映画『フラ・フラダンス』感想

フラ・フラダンス

 

基本情報

 

はじめに

東日本大震災の被災三県(岩手県宮城県福島県)を舞台とするアニメ作品を発表する企画の一環として制作された作品。総監督は『UN-GO』『楽園追放』などの水島精二。かつてフラガールだった姉を亡くした主人公が、新人フラガールとしてデビューし、新たな仲間と成長を遂げていく。
 

感想

十年前の悲劇から。あの凛々しいプアラはもう戻ってこない。それでも、スパリゾートハワイアンズは決して屈することなく、フラガールたちは笑顔を絶やすことなく、前に進み続ける。忘れ形見のマスコットに姉の姿を重ね、夏凪日羽(なつなぎひわ)は、今日も踊って笑っての繰り返し。目指せ、ひまわり笑顔のフラガール

というわけで、アニメ映画『フラ・フラダンス』である。主人公のCVは、福原遥。言わずと知れたクッキンアイドルであり、キュアカスタードの声優でもある。その他主要メンバー四人も売れっ子女優&声優がCVを担当しており、技術的な面では安心。配役もぴったり。ただ、男性キャストは違和感が残る。

先にアニメーション的な評価をしておくと、大島ミチルの劇伴ぶつ切りのコンテワークは場面切り替えで唐突感が生まれてしまって、あまり良いとは言えない。そして、一番の違和感は日常、ギャグ、シリアス、そういった浮き沈みの感情を同一線上の演出で済ませてしまっているという点。場の雰囲気を重視する「雰囲気アニメ」ならともかく、本作にそういった要素は見当たらない。特に、ギャグシーンはもっとギャグシーンらしくて結構なのだが。その点、三人が大泣きしながらチョコかき混ぜるシーンとかはとても良い。

後述するが、本作の良点である「あえて節目を作らない演出形態」は、細かな場面単位で抑揚のある演出と同居不可能ではないので、やはり作品全体で地味さが先行しているのは勿体ない。

フラダンスシーンは手書きに寄せたCG感で、動き表情の滑らかさを表現するには良かったのではないだろうか。だが、そもそも極めて細部の表現が難しいダンスシーンをリアルに寄せるのならば、最初から実写でやればいいだけの話だ。その弱点を跳ね飛ばすほどの演出的インパクトやカメラワークの趣は、率直に言って見当たらない。

では、内容面に入ろう。日羽の「仲間」は大きく二つ、高校の同期と新人フラガールの同期なのだが、いずれも夢を追う者同士。ここに、ある種の対比表現として、面白い部分がある。高校同期にとっては、日羽はいわゆる「成功者」であり、浪人生と美容師を目指す学生にとっては「踊って稼げる」のが羨ましいと。

当然、日羽には大きな障壁がいくつも存在するわけで。しょっぱなからフラダンス未経験の自分を周りと比較して気後れすることもあり、実力がすぐ周りに追いつくこともなく、遅刻して叱られることもあり。まあ、最後のは完全に彼女自身の責任なのだが、不安と焦燥に駆られる彼女の姿を見れば、現実の厳しさは伝わってくる。加えて日羽は、小学生の時に姉を亡くしている。十九歳の今もなおマスコット人形に亡くした姉を重ね合わせ、悩みの種をぶつけるくらいには、頼れる存在であった。

一方で同期のフラガールである。可愛らしい呼称に「パンダじゃない」と反発する鎌倉さん、コミュ症全開のしおん。必然と言うべきか、蘭子とオハナ、日羽の三人が最初に打ち解けて徐々にチームワークを作っていく。性格はダンスにも表れ、各人に課題在り。特に日羽のぎこちなさは、体幹とバランス感覚を鍛える経験値が不足しているようで、これが映像でしかと伝わってくるのは良いことだ。

高校同期から見れば夢に近づいた「上」の存在、フラガールとしてはド下手。高校同期の友達も、会話中の日羽の表情からヘビィな現実を汲み取って励まし合えるの、良い友人を持ったなあ。無論本作は新人フラガールに焦点を当てて話を進めるわけだが、時折高校の親友に肩を預けながら、真実それが日羽の成長に影響しており、効果的な場面転換であった。

さて、日羽が一度遅刻した時に、フラガールの「極意」を伝えつつ日羽の個性的な志望理由を尊重して叱る先輩、威厳の中に優しさが隠しきれてなくて好き。ここで、フラガールの笑顔の裏のプロ意識が言語化されるの、マジ大事。「ひまわりのような笑顔を分かち合いたい」の一心で突き進む日羽の個性も出てきて、ようやく時が動いたという印象。

日羽持ち前の逞しさで臨んだ新人デビューの結果は散々。嘲笑の的にされる御一行だったが、心機一転、成長物語にシフト。かんかんの親との間の確執、らんらんの体形問題、オハナのホームシック、しおんの硬い表情。互いが互いを高め合うチームとして、徐々にほつれが解れていく過程には、オーソドックスな群像を見出せる。

ただ、サブキャラたちのドラマは、信じられないほど温い。これは、主人公メインの物語に群像劇を加えたことによる、二時間弱の映画の物理的な欠陥であり、どれだけ手慣れた脚本家でも捌くことは不可能である。具体的な欠点を上げればキリがないが、いずれも場合も障壁が薄すぎる。それぞれが今まで形成してきた人格に立ちはだかる大問題が、そんな簡単に解決されていいはずがない。このあたりの群像は、ほとんどカットか1クールのアニメで描くかの見切りが必要だろう。

さて、ドラマの中心の日羽について。挫折していたときに降りかかる、同じ職場の先輩の鈴懸さんの言葉。スパリゾートハワイアンズの不撓不屈の精神を受け継ぐ者として、再び日羽は兜の緒を締める。コンクリ建築の大きくズレた層を前に、乗り越えられないことは無いことを実感させる。

ここからは、鈴懸さんへの淡い恋心、日羽と真理の姉妹のドラマ、震災復興モノとしての物語が加わり、全体の展開を見る層としてはかなり盛り上がってきたという印象。ここで重要なのは、根幹はフラダンスにありということである。言わば、ストーリーの終着点は日羽のフラダンスが成功し、彼女が何か気付きを得て精神的な成長を得ることである。

この「成功」の部分が果たしてどういうふうなのかという、少しぼんやりした感じもあるが、終盤にははっきり見えてくる。ここに、あえて劇的な演習をしない平坦さを持つ本作の良点がある。本作の明確な着地点は見えづらく、主人公の成長という点において明確な節目が無い。以下は水島監督のインタビュー記事の引用である。

水島:そうですね。日羽に限らず、全編を通して重要なドラマが自然に入ってくるお話なので、ここが節目のイベントだ、という見せ方をしないことが演出のうえでも大事だなと脚本を読んだときに思いました。

映画『フラ・フラダンス』 水島精二が語る「総監督の“お仕事”」② | Febri

登場人物の”自然な”進歩を描く表現としては、お誂え向きであろう。現実路線で律儀といったドラマ作りの印象を受ける。

結論から言えば、日羽やその仲間たちが「自分(たち)らしく」踊れることがゴールである。もともと、日羽はフラダンサーとしての社内評価は最下位だった。ダンスが上手い訳でも愛想が特別いい訳でもない。ただ一つ、彼女が持ちうる才能が、常に一生懸命なところである。日羽の個性ここにありで、スパリゾートハワイアンズはそれを必要としている。悲劇の日から立ち直れたのは、フラガールの笑顔に多くの人々が支えられたからだ。

らしさを発揮するために、チームは試行錯誤を繰り返す。行き着いた答えは、ポップでモダンなアイドル風のフラダンス。オリジナリティ満載で臨んだ全国大会は、会場を沸かせ、笑顔を共有することが出来た。結果こそ奮わなかったが、ここで先生に褒められる場面を入れたのは、プロのあるべき姿を認められたことを意味しているようで、より彼女たちの真剣さを際立たせるのに大事なことだと思う。

話が前後するが、日羽は淡い恋心とちょっとした失恋を経験している。さてその相手の鈴懸さんであるが、おそらく姉の真理の想い人で、彼にとって真理はかけがえのない存在だったはずだ。それに比べれば、日羽の失敗談などちっぽけな話。前を向ける日羽なら、立ち直ることなど容易いことだ。この日羽の失恋をコメディっぽく描いているのはしっくりくる。並行して描かれた平マネージャーと頼れる先輩塩屋崎さんの結婚報告は、暗い話ばかりにならないための良い材料となっている。

では、クライマックスシーンである。姉が憑依しているマスコットとの別れの会話。人形の中の姉は天に昇り、突然、あたり一面にひまわりの花が咲き誇る。『天体のメソッド』か? 日羽はひまわりの道を駆け抜け、大声で叫ぶ。「ここにいるよ」と。

なんともファンタジックな展開であるが、ここには多くの意味が込められている。まずは、日羽がフラガールとして成長した証。日羽はフラダンスの仕事で紆余曲折を経て、最終的には一人前のフラガールとして認められている。大事なのは、日羽自身がそれを知ったということである。すなわち、自分はフラガールとして今ここにいるという誇りの現れである。

次に、姉の存在を永遠のものにするという点。このあたりは映画トロプリの感想でも書いた。姉が亡くなっても、姉の想い全てを受け取って生きていく存在=日羽はいて、日羽の中に姉はいる。このあたりは、死者に対するメッセ―ジともとれるだろう。

また、スパリゾートハワイアンズの壊れた壁に象徴されるように、今日日羽が受け継いでいるのは、過去の人々が苦しさを耐え忍んで作り上げたものの集大成だ。その中の一つが、かつてフラガールであった真理の冠名「プアラ」に他ならない。日羽は今後、塩屋崎さんからプアラを引き継ぐことを示唆されている。これも同様に、時を超えて受け継ぐ存在がいるという意味での、「ここにいるよ」である。先人たちへの敬意が込められているのも、忘れてはならない。

最後に、被災者に向けたメッセージである。結局、本作が常に何を重視していたかと言うと、災害に遭った人々の努力と、前を向き続ける意思である。日羽が十年前に味わった絶望から、姉と同じ道を辿り、悲劇を受け入れ、自尊心を取り戻した。この一連のストーリーはいわば「被災者の成功体験」である。つまり、未来への希望という意味合いが込められている。視聴者は日羽と自分を重ね合わせることによって、どんな困難も乗り越えられるというメッセージを受け取ったはずだ。

以上、内容面についてはこれで終わり。あとは、ファンタジックな現象に対するあれこれ。結論として、人形に姉が憑依しているという設定を持ち出したのは、ストーリー分析的に、ひいてはドラマ作りとしても正解である。

これにより本作は、本ブログで度々批判している(することになるだろう)自己完結のストーリーを回避している。普通は、人は他者の言葉によって気付きを得、変化する。本作も日羽は人形=姉との会話で、自信をつけたり、姉の死を受け入れて成長したりする。ここで重要なのは、日羽は人形自身が意識を持って喋っていると思いこんでいるということだ(ごっこ遊びではない)。そのため、日羽とその姉の真理のストーリーには、それなりの強度がある。

まあ、色々述べてきたが、映画の完成度自体は高くない。特に、中盤のチーム仲間に焦点を当てた話は、無いほうがマシなレベルだ。それでも、好きになれる部分は確かにある。そうでなければ、こうして記事を書くことも無かっただろう。あと、フィロソフィーのダンスの主題歌は、間違いなく今年のアニメ映画のベスト候補に挙がってくるほど素晴らしい。いい映画でした。ありがとう。