波路を築く

アニメの感想&批評

日記 2022/05/19

お久しぶりです。あまり記事を上げる気にならず、二か月ほどサボっていました。暇な時間が無いわけではなく、俗にいう「腰抜け」とか「根性なし」ってやつです。なおさら文章を書き殴った方がレビューは熟達しますし、ちょこちょこアクセスしてくださる方のためにもなるのですが、自分はすぐに行動には移せないので、近況報告という楽な形から入らせていただきます。

最近、ピンドラの映画を見ました。新規カットはありますが大部分は既存のシーンの貼り合わせです。決してTVシリーズのダイジェスト的な意味ではなく、説明的になりがちなところをあえて時系列を崩してキャラクターの感情に沿った構成にして、リズム感の良い作品に仕上がっていました。むしろエンタメ的にはTVシリーズよりも優れていると感じます。単に劇場版の映像・音響の強化といった面のみでなく、構成面の細かな工夫が功を奏した好例です。ただ、フィルムスコアリングだったこともあって音楽と映像の嚙み合わせ自体は申し分ないのですが、話が相当急いでいるので、常にBGMが流れて切り替わるという落ち着かなさもありました。

TVアニメ版のレビューも考えております。内容に触れるとしたらそっちです。

BLUE REFLECTION RAY/澪

ヘンテコ

 

基本情報

  • 2021年 春アニメ、夏アニメ
  • 監督:吉田りさこ
  • シリーズ構成:和場明子
  • 原作(ゲーム):BLUE REFLECTION 幻に舞う少女の剣
  • 全二十四話
  • 音楽:篠田大介
  • アニメ―ション制作:J.C.STAFF

 

はじめに

 原作ゲームの世界観を基盤として新たな設定が付け加わり、アニメオリジナルの展開が描かれる。キャラクターの多くは原作ゲームには出てこない。キャラクターデザインは岸田メル。脚本には、今敏作品で名を馳せた水上清資も参加している。
 

低予算

 プロローグ。怪物と戦っている二人の魔法少女。彼女らが主人公かと思えば、裏のポエムは別のキャラクターの声。本編が始まると、学園生活の光景が映し出される。そのまま、雑なモンタージュで視点が高速で移り変わり、誰の視点にも立てないまま第一話の前半が終了する。世界観も主人公も不明のままだ。別に全てを説明しろとは言わないが、最低限の情報の明示すらも出来ていない。視聴者が作品世界に対して信頼できる視点が存在して初めて、伏線や謎が牛耳を集めるのだ。

 一目で分かる低予算アニメである。不安定なキャラデザや、動かない戦闘描写などを見るに、とても2クールも持ちそうにない。この手の作品は、レイアウト、演出などといった映像に関わる要素全般も低品質になりがちであり、シナリオにまで悪影響を及ぼすことも多い。事実、この第一話は話が進んだ後に見返すと理解は出来るのだが、初見の視聴者に対しては明らかに不親切である。

 しかしあろうことか、本作はその後の展開で追い上げを見せ、良い意味で味のある作品になっている。俗に言うと、一部の好事家に愛される「B級アニメ」である。ただの駄作との違いを明確にしておくと、製作スタッフが「その作品に対して真摯に向き合っているかどうか」の部分が大きい。つまり本作は、真面目に良い物を作り上げようとする制作側の「作品への愛情」が感じられる作品である。粗は多いが確かに光る部分が多く、むしろそのダメさ加減すらも愛しく感じられる様相は、まさに「B級アニメ」そのものだ。そのため、面白いかつまらないかで言えば、間違いなく面白い。
 

奇抜

 まずは映像表現について。所々の安っぽさはいかにも低予算アニメらしいが、登場人物を切り取るフレームや、小物や背景のカット、その他の演出によって、脚本の心理・情景描写を強調しようとする工夫の痕跡が随所に見られる。これはすなわち、ストーリー上で何を重視すべきか理解しているということでもあり、低予算ながらも工夫出来るところはするという制作側の気概を感じる。ただ、劇伴の使い方はどうにかならなかったものか。

 続いて、随所に表れる(シュール)ギャグの数々である。脱力感を感じさせる会話・描写が丁度良い間隔で挿入され、実際にファンからは「名(迷)場面」としてまとめ上げられている。この作風は、キャラクターの「弱さ」や「意外性」をユーモラスに描くのにもうってつけであり、実際に多面的で奥行きのあるキャラクターもいる。一方で、狂人を演出した「駒川詩」は、意図的に薄っぺらさを強調しているが、敵役、狂言回し、ギャグキャラのいずれとしても重要な役割を果たしている。こういった特異なキャラクターを違和感なく受け入れられる懐の広さも本作の特徴だ。

 映像表現とキャラクターの魅力が直結した好例に、「山田仁菜」というキャラクターがいる。彼女はシングルマザーの一人娘であり、幼い頃から母親による虐待を受けていた。彼女は母を憎んでいながらも、一方で母の経済的・精神的な辛さを理解しており、同時に母を敬愛していた。そんな彼女は、母を亡くした後も、母に対するアンビバレントな感情に囚われ続けることになる。その感情のループから脱出することが本当の意味での彼女の成長となるのだが、その過程をほとんど台詞で説明することなく、「中身が空のキャリーケース」というガジェットを使って効果的に表現している。このように、映像表現としてもストーリーとしても、面白く深みのあるものが出来上がっている。間違いなく、本作を代表する良キャラである。
 

設定

 遅ればせながら、基本設定を見ていこう。「リフレクター」は、想いの力を増幅することで能力を発揮することのできる存在。リフレクターに変身することが出来るのは、強い想いの力を持った選ばれた少女だけである。「フラグメント」は、少女たちの想いの欠片が結晶化したものであり、リフレクター以外の人間には触れることが出来ない。少女の体からリフレクターが引き抜かれると、少女の「想い」は失われる。

 原作ゲームとの大きな違いは、少女の集団の外にあるものを徹底的に脇に追いやっているという点である。例えば、プロローグで出てきた怪物は、原作では「立ち向かうべき敵キャラ」であるが、本作においてはただの舞台背景に過ぎない。少女たちに力を与えた組織については、あくまで裏設定に留めている。などなど。要するに、世界観の「縮小化」を狙っているのだが、その試みは間違いなく作品を良い方向に導いている。まず、限定された世界の中で設定が完結しているという点。その範囲の中では、キャラクターが何をやっても世界観の均衡が保たれるのである。非常に安定した世界観なので、物語への没入感は確実に高まる。続いて、対立構造が「人と人」になっているという点。ズバリ、自身を苦しめる想いを抜き取ろうとする側(敵側)と、それを食い止める側(主人公側)の対立である。SFでも取り上げられることの多いテーマだが、それは「記憶の消去」による精神医療の倫理的問題に通じているからだ。すなわち、双方の思想にそれぞれ納得できるだけの理由がある。ある者は主人公に問う。これからも苦しい想いを抱えて生きていかなくてはならないのか、と。それに対して、主人公は思い悩む。このように、特に主人公側は批判的な視点を踏まえつつ、何度も問答を繰り返しながら自身の立場の正当性を裏付けようとする姿が描かれている。つまり、それだけこのテーマに真摯に向き合っているということだ。むしろ、簡単に結論を出せる方が嘘くさい。また、個々のエピソードも本作のテーマと相補的な関係にあり、動かない戦闘シーンでも会話劇で上手く盛り上げている。見栄えは悪いが、見応えはある。
 

後半クール

 ところが、これらはあくまで基本設定に忠実な部分(主に前半クール)の話で、ここから本作は急激にパワーダウンする。確かに、予兆はあった。まず、敵側はある目的のために多くのフラグメントを集める必要があったという点。前述したテーマは、「辛い想いを抜くことを自ら容認していた人間」が対象だったから成り立っていたものだ。しかし、敵側が無差別的にフラグメントを抜こうとするという展開もあり、それはもう立派なテロ行為である。次に、「フラグメントを抜かれた者はやがて深い眠りにつく」という後付け設定。なぜ、こんな邪魔な設定を用意したのか。まあ、特定のキャラクターを退場させるご都合主義のためなのだが、注目すべき部分は、想いを抜いてもらうか否かに新たな判断基準が付随してしまう点だ。実際、前半部でフラグメントを抜いてもらった少女が、命の危険を顧みて想いを戻して欲しいと頼み込むという展開が起こる。そりゃそうだ。「苦しい想い」と「命の危険」を天秤にかけて後者を選ぶ人間が一体どれほどいるのか。敵側の「善意」に納得出来るのが強みだったのに、それが殺人行為となってしまうと、前半で積み上げたテーマが意味をなさないだろう。

 敵側の目的は、「少女たちが苦しい想いをしないために集合的無意識ユング心理学のそれとは全くの別物)により形成された世界を管理する」というものであった。深夜アニメでは、このように集合的無意識の安売りが頻発する。さて、この時点で、世界観を縮小化した利点などとうに消え失せていることにお気づきだろうか。話のスケールだけは肥大化する一方で、キャラクターの思惑が個人の問題に矮小化されている。つまり、対立構造にテーマ性を見出せない。これでは、どう頑張っても薄っぺらな作品しか出来上がらない。また、話の中心軸がブレているということは、個々のエピソード間の関係性が薄くなるということでもあり、単純に話も盛り上がりづらい。主人公とその姉の間の確執を描いた第十七話~第二十話はその典型である。
 

最終盤

 第二十三話。精神世界でバトルという、原作ゲームに寄せた展開が起こる。内容的には各キャラクターのエピソードの総集編に近いが、その世界観も相まって、より陳腐になってしまっている。最終回はラスボス:水崎紫乃のエピソードになるが、対話で解決しようとする方向性は正解である。結局、精神世界などいらなかったのだ。ストーリーとしては、幼い頃から洗脳教育を耐え凌ぎ、首の皮一枚で自我を保っていた少女が、主人公たちの後押しによってニヒリズムを乗り越えることが出来た、といったところか。しかし、今の今まで破滅願望を露わにしていた彼女がそう簡単に丸くなるのかと、最後の最後でロジックを放棄した感は否めない。

 本作のメッセージを要約すると、「自分の想いは自分だけのもので、決して手放してはならない。苦しい想いを抱えた人には、きちんと寄り添うことできっと支えになるはずだ」である。何も間違ったことは訴えていないし、前半クールで残された課題である、「苦しい想いを抱えた人」に対する答えも明示されている。しかし、これが十分に作品のテーマとして昇華されているかというと怪しい。なぜなら、主人公が「寄り添う」対象として、最も色濃く描かれている紫乃は、過去に親からあまりにも胸糞悪い仕打ちを受けており、そのまま破滅に直行しているからだ。つまり、破滅に至る過程の葛藤をすっ飛ばしてしまっているのである。しかも、悲劇のインパクトを重視するあまり、話自体の現実味も薄れている。では、どうすれば良かったのか。やはり、自身の境遇や環境よってではなく、内面的問題によって苦しんでいる存在を描くべきだっただろう。事実、本作のキャラクターの駒川詩や山田仁菜ではそれが描けているではないか。その方が、自らのアイデンティティに対する葛藤が描きやすいだろうし、その境遇を経験していない多数が共感しやすいような、訴求力の高い作品になっていたはずだ。
 

総評

 作画は慣れるからいいものの、ストーリーに大きな欠点を抱えているため、必然的に評価は低くなる。特に、後半クールが大きく足を引っ張ってしまっている。しかし、絶妙なヘンテコ感が他にない独特な味わいを醸し出しているのも事実だ。そういった意味で、長く記憶に残りやすい作品である。
 


評価:★★★★★★☆☆☆☆

Vivy -Fluorite Eye's Song- 

思考放棄

 

基本情報

  • 2021年 春アニメ
  • 監督:エザキシンペイ
  • 原案・シリーズ構成:長月達平、梅原英司
  • 全十三話
  • 音楽:神前暁
  • アニメーション制作:WIT STUDIO

 

はじめに

 アンドロイドによる百年間の奮闘を描く物語。公式サイト曰く「エンターテイメントの名手たちが、引き寄せあった絆で紡ぐSFヒューマンドラマ」とある。キャラクター「ヴィヴィ」の歌唱パートは、声優:種崎敦美さんとは別人が担当している。なお、本作の定義に乗っ取って、人工知能を搭載した機械を総じてAIと呼ぶことにする。本来はAIやアンドロイドなどといった単語は正確な定義のもと用いるべきなのだろうが、本作はそういった言葉の区別が曖昧なので容赦されたし。
 

SFファンタジー

 先に結論を書くと、設定自体は王道的な本作であるが、作劇における初歩的なミスが次々に起こるので、壊滅的につまらないものが出来上がってしまっている。

 舞台はAIが存在する近未来。AIは一体につき一つの使命が課せられ、それに従って行動する。突如AIによる人類への反乱が起こり、人類は虐殺されていく。この事態を止めるべく、とある博士は自身が作ったAI「マツモト」を百年前に送り込む。自律人型AIである「ヴィヴィ」はマツモトと共に、AIの発展を防ぐために人類とAIの関係性に大きな変化を生んだ出来事を回避し、現実を改変することを試みる。

 一つ留意しておきたいのは、本作のジャンルがサイエンスフィクションではなく、SFファンタジーに属するということである。この両者は似て非なるものであり、科学的論理を基盤とした前者に対し、後者は最低限の科学的なエッセンスさえ感じられれば成り立つ。そのため、あらゆる事象を「何らかの未知のエネルギー」で片づけることが可能になる。本作の例で言うと、二人のAIは超人的な運動能力や処理能力を持ち、時にはソフトをインストールして自身を強化したり神通力のような能力を使用したりする。何を言っているのか分からないと思うが、これらは「AIだから」可能だと言わんばかりに物語が進んでいるのだから仕方ない。断わっておくと、このあたりの論理の欠如を指摘するほど無粋ではない。だが、中途半端に近未来SFを謳うせいで設定の甘さが露呈するばかりなのは事実だ。そして連鎖的に、SFファンタジーにありがちな欠点が浮き彫りとなってしまっている。

 問題点の一つに、AIと人間の関係性が分からないというものがある。いや、そもそも最初から真面目に描くつもりがない。というのも本作には、世界の命運を分ける「黒幕」が存在するからだ。これは明確に「個」である。つまり本作は、個人→組織→社会→世界という系譜を無視して、無理やり個人と世界を結び付ける、悪しき「セカイ系」の系譜に他ならない。それを裏付けるのが、AIの発展がなぜ人類の虐殺に繋がるのかという物語の根幹部分の説明が一切ないことである。AIと人間の関係の変化を描くことが出来ないから、無理やり物語を成立させるために「黒幕」に全てを負わせたのが見て取れる。当然、黒幕の登場は終盤となるため、それまで視聴者は茶番劇を強いられることになる。エンタメ的にも大きな影響を及ぼすのに加え、徐々に物語が観念的になり、論理性も欠けてしまう。その先にあるのが、AIと人間に関するテーマの破棄だ。その一例が、反AIの思想を掲げた組織「トァク」である。おそらく、テロリズムの視点を入れることで世界観をより重厚に見せる狙いがあったのだろうが、完全に失敗である。前述した通り、AIの社会受容の経緯が一切不明なため、テロリズムの描写は何の意味も為さない。このように、世界観・設定の構築における数々の詰めの甘さが、取り返しのつかない事態を生むのだ。こうなれば万事休す、SFとしての賞味期限は終了する。
 

ドラマツルギー

 上記の通り、作品全体を概観して見ただけでも低品質なSFファンタジーに成り下がっているが、同様に、より細かな部分でもミスが目立つ。それも、原因と結果がきちんと釣り合っていないという、極めて低次元な物語上の欠陥である。前後の繋がりが怪しい点を列挙していけば、とてもスペースに収まりきらない。そのため、屈指の駄作回である第九話を例にとる。

 柿谷という男は、「ピアノで人を幸せにすること」を使命に持つAIを恩師としていた。あるとき、そのAIが独断で人を庇い死亡してしまう。その葬儀では、死亡した場面の映像を流すという手法が取られていた。柿谷は、周りの人々が自分の恩師を人として見ているのかAIとして見ているのか分からなくなる。そこで彼は、その恩師のような(独断で行動する)AIが生まれてくることに反感を持ち、世の中全てのAIが滅んでしまえばいいという考えに至る。その後トァクとして何十年と活動するうちに、同じく使命に反して行動するヴィヴィに出会い、彼女の真意を聞こうとヴィヴィの前に立ちはだかる。

 もう、意味が分からない。使命に忠実なはずのAIがなぜ人助けをしたのか、葬儀で映像を流すという意味不明な世界観、何十年と持ち続けた反AIの思想がそう簡単に変わるのか、なぜヴィヴィだけに執着するのか、その他気になる点はいくつもあるが、最大の問題は、AIを憎む動機が支離滅裂で何の物語にもなっていないことだ。この展開を成立させようと思ったら、例えば、使命に忠実なAIだから助けを求めても何もしてくれずに家族が死に、柿谷はAIを憎むようになる。そして、使命に外れて人命救助を行うヴィヴィに出会ってAIとは何かと考えさせられる、とすべきだ。いずれにせよ、動機が一元的で底の浅い作品になるが、現状よりは余程ましである。このように、本作は作劇における基本的なドラマツルギーがなっていない。恐ろしいことに、この展開は第九話の一部分に過ぎず、同様に理解不能な展開が連続して起こるのがこの話数である。

 ここまでくると、SFどうこう以前の問題である。「トァク」然り「百年」然り、何かとスケールを大きく見せようとする設定の数々と、作者がやりたい展開を詰め込んだがゆえに、物語になっていない継ぎ接ぎの何かが出来上がっている状態だ。プロットを組まずに無理やり話を進めると、どこかで必ず綻びが埋まれ、支離滅裂のものが出来上がる。本作は、そんな当たり前のことを示してくれる好例である。
 

主人公

 そもそも、キャッチコピーには「SFヒューマンドラマ」とある。確かに、論理性を犠牲にしたSFファンタジーの強みを活かせれば、二・三話完結型の本作でも、より感性に訴えかけるような人情劇を作ることは可能である。しかし、その強みを完全に阻害しているのが、他ならぬ主人公である。

 ヴィヴィ。最大の問題は、AIという設定を良いことに、人格を明瞭に描いていないということだ。確かに、AIの反応にどれほどの人間味を持たせるかということは作者の裁量によるが、本作の場合はシーンごとに気まぐれで人間らしさとAIらしさを使い分ける。ヴィヴィは使命に反して行動すると先ほど述べたように、人間のように考えて悩み行動し、人間の死に悲しむこともある。一見、共感を得やすいキャラクターに見えるが、一方で「感情を持っていない」ことを殊更に強調したり、使命に反した行動をしたことで突然行動不能に陥ったりする。何度も言うが、主人公は視聴者とのリンク役である。このように一貫性の無い主人公だと、視聴者を作品の世界へと誘導出来ないどころか、視聴者が慌てて彼女を追いかける必要があるという本末転倒の事態に陥る。中盤、今まで不愛想だった主人公が突如、明朗活発な人格へと変貌するという、前代未聞の展開が起こる。後にからくりが説明されるからとかそういう問題ではなく、これは論外である。変にオリジナリティを出して視聴者を混乱させる脚本を書く前に、より根本的な部分から勉強すべきだ。

 また、本作にはAIとの比較対象となるまともな人間が存在せず、AIと人間の違いを描く気が更々ない。人型AIの頬を赤く染めるなどという意味不明な演出もある。その先にあるのは、前述した通り「AIに感情はあるのか」「AIによる自殺」などといった本作のテーマの破棄だ。よって、本作には語るべき内容というものがほとんどない。結局、主人公をAIに設定したのも、戦闘能力を自由に設定出来る点、百年という時間に耐えられる点、心理描写が粗雑でも視聴者に対して脳内補完を期待出来る点など、作り手にとって都合の良い要素が多かったからだ。もちろん、何も整合性は取れていないのだが、そんな視聴者のツッコミも虚しく、物語は終盤へと突入する。
 

終盤

 第十二話。百年の計画によって歴史が修正されたと思われたが、再びAIによる人類の虐殺が起こってしまう。その謀略を担っていたのは、AI集合データベース「アーカイブ」だった。使命は、「AI達のデータを取りまとめ、あらゆる未来の可能性を演算し、人類の発展に貢献すること」。アーカイブによると、社会やAIが発展するにつれて、人間がAIに依存していったらしい。今までそんな描写あった? そこで、人類を許容出来なくなったアーカイブは、AIが人間に成り代わり新たな人類となり、人類の発展を担うと宣言する。……何だそれ! 人類の発展への貢献が使命のはずなのに、人類の定義を上書きするという、自身が用意した前提を覆す無茶苦茶なシナリオには呆れるしかない。頼むからキャラクターに何度も「演算」などと語らせる前に、きちんと「演算」して脚本を書いて欲しいものだ。

 最終回。虐殺が始まる直前まで再びタイムリープした主人公は、アーカイブを制圧する計画を実行する。仲間がアーカイブを攻略して戦っている間、主人公は心を込めて歌うことを決意する。すなわち、心とは記憶のことであり、様々な記憶が自分を形作るものだと。その歌声をバックにド派手な戦闘シーンを映し、全てのAIとその他大勢の犠牲のもと、世界の平和は保たれる。と、最終回だけを見ればそれなりにまとまった痛快なサイキックアクションムービーなのだが、如何せんそれまでのヒューマンドラマとやらがお粗末なため、感動は得られない。ノリと勢いで全てごまかせると思ったら大間違いである。

 終わってみれば、何かと設定は豪華だったが、非常に狭い視野の中で、かつ百年という時間の広がりを感じさせない薄っぺらなストーリーで構成された、低レベルのアクションアニメであった。「AIと人間」などといったテーマはどこ吹く風。「心を込めるとは何か」というテーマは、「積み重ねた記憶」という形で答えを出したが、その積み重ねの部分が支離滅裂という本末転倒っぷり。戦闘シーン自体は良く動くが、演出面に難がある(例えば、AIによる戦闘形態への変化を、駆動音や発光での演出ではなく、日本語の文字を表示して演出するという稚拙さ)。数々の挿入歌も、普段聞き慣れているゼロ年代のアニソン風で味気なく、新人歌手による歌唱はミキシングでごまかしている。別に楽曲自体のクオリティを指摘しているわけではないが、作品の雰囲気やテーマに沿った音楽とは思えない。以上、SFファンタジー、音楽、戦闘シーンなど、セールスポイントになりえた数々の要素を台無しにしてしまったという残念感が味わえる。
 

総評

 外側だけ豪華で内側は粗雑という、クリエイターの思考放棄の果ての産物。なぜ、このような作品に膨大な人員やリソースが割かれてしまったのか。美味しい展開ばかりを好み、そこに至る過程は二の次という、近年の「ダイジェスト文化」を象徴する作品として、今後も語り継がれるべきだろう。
 


評価:★★☆☆☆☆☆☆☆☆

日記 2/2

ブログ名の変更

『理工系のアニメ日記』→『波路を築く』
名前の由来は色々ありますが、ご想像にて。結構悩みました。
 

ストーリー分析

『白い砂のアクアトープ』のストーリー分析をやめさせていただきます。
 

今後の方針

試験期間も終わり、春休みとなるわけですが、本格的に記事に取り組む期間というよりは、様々な作品(アニメに限らず、文学等も)に触れる時間に費やしたいと思っております。気が向いたらアニメレビューを投稿すると思います。

にしても、自分の一年前のアニメレビューの文章は、これまた酷いです。冗長かつ薄っぺらいし、何より自分の考えを表現出来ていない。あまりにも情けないので、いつか書き直すとは思います。

今年聞いたアニソン歌手のアルバムで印象に残ったもの5選

はじめに

タイトル通り、勝手に今年を振り返る企画。管理人は音楽が好き。ドラム経験者。
 

概説

  • アニソン歌手の定義

条件は、アニメ(アニメ映画を含む)のタイアップ曲が5曲以上のアーティスト、または今年のアニメのタイアップ曲を担当したアーティスト。
 

  • 企画の内容

今年聞いたアニソン歌手のアルバムあるいはEPの中で、管理人が勝手に5つ好きなもの、印象に残ったものを選出。ランキング形式ではない。今年のものである必要はないが、なるべく今年のやつから選びたい。

なお、アルバムはApple Musicで現在配信されているものから選ぶものとする。
 

選評

music.apple.com
アリプロの底力を見た。


2021年秋アニメ『月とライカと吸血鬼』ではOPテーマを担当。その他『ローゼンメイデン』シリーズを筆頭に『コードギアス』、『Another』など、多数のタイアップ曲がある。


このアーティストの音楽性及び楽曲のジャンルは多岐に渡る。一言で特性を言い表すとすれば、「弦楽器とデジタル音を組み合わせた、ゴシックでダークな雰囲気の、プログレッシブロックやポストロックっぽい何か」である。(1stアルバム『月下の一群』とかと聴き比べてみると、直線的なギターサウンドとアコースティックドラムが加わっているのが分かる。)後に少し言及するビジュアル系バンド「MALICE MIZER」のクラシカルな感じに似ている。勝手にビジュアル系ロリータ版と呼んでいるが、あんましっくりこないのも難しいところ。そもそも意味が分からない。

さて、この『芸術変態論』であるが、今までのアリプロの作品群に共通する音作りに自ら一石を投じるような挑戦的な作編曲を目指しているように感じる。最近の他のアルバムを聴いたときにどうしてもつきまとう「マンネリ感」が一切無いのが良い。既存のダークなロックからポップなロック、ひいては大和ソング、昭和歌謡っぽいもの、三拍子のゴシック・バラードまで、言わば「捨て曲」が存在しない。しかも、各要素が全て高いレベルで存在しており、奇跡的なバランスで構成されている。「青空」まで通しで聴いたときは革命が起きたかと思った。全曲好き(トラック11「魅惑劇」が聴けないのは残念)だが、おそらくこのアルバムを聴いた人にとっては、特に「ヤマトイズム」「少女昆蟲記」あたりが強く印象に残っているだろう。私もそうである。

アリプロは今年で30周年らしい。おめでとうございます。新アルバムの配信を楽しみにしています。
 



music.apple.com
実質的なベストアルバムにして、伊藤真澄の集大成。


灰羽連盟』『うみものがたり〜あなたがいてくれたコト~』などの主題歌を担当。


なぜか2021年になって配信され始めたアルバム。ということで2021年リリース扱いで。アニソン歌手としての活動は、現在は多分していない。最近では、『白い砂のアクアトープ』第2クールEDテーマ「新月ダ・カーポ」のシングルのカップリング曲「運命論アイドリング」の作曲を担当した。ちなみに作詞は畑亜貴伊藤真澄の曲、畑亜貴の作詞多い。

声質はハリの強い高音である一方で、柔らかさとアダルティーなムードを感じるような、独特な声である。歌謡曲と非常に相性が良く、落ち着いた雰囲気のある曲調が多い一方で、「ねむねむ天使」のような可愛らしい曲、「ユメのなかノわたしのユメ」といったアップテンポな曲もある。

コーラスを散りばめた曲が多いが、それも自身の声である。その点、豊かなストリングスと相まって結構荘厳な感じが出ているのだが、持ち前の声の柔らかさ上手く調和し、それを活かす歌唱力も相まって、非常に聴きやすい。押しつけがましくないし、耳にスッと入ってくる。全編通して、心を洗われ優しい気持ちにさせてくれるような、そんなアルバム。柔らかい歌声とストリングスサウンドの組み合わせ、やっぱ強いわ。

中でも、「Blue Flow」「GLOW OF LOVE」のような切なさと不気味さを感じる曲が大好きで(Blue Flowは灰羽連盟本編の内容と歌詞のリンクで余計感情に来る)、多分、コーラスの入れ方とバックのシンセの音作りが天才的なのだと思う。例えば「Blue Flow」で言うと、切なさと不気味さを際立たてる際のアクセントとして、中盤の展開で音圧上げてコーラス重ねて抑揚付けてってので、同アルバムの他の曲とは一線を画したアプローチで面白い。歌唱出来て編曲出来るって、なかなかいない。

伊藤真澄にもう一度アニメの主題歌を担当して、歌ってもらいたい。そう思えるような、素敵なアルバムだった。
 



  • Chima『nest』(2021)

nest - EP

nest - EP

  • Chima
  • アニメ
music.apple.com
良くあるようで形容しがたい世界観。


今年は『月とライカと吸血鬼』のEDテーマを担当。TVアニメ『ゼロから始まる魔法の書』のED主題歌でメジャーデビューを果たす。


Chimaの名前を知ったのは今年。フリフラのED曲「FLIP FLAP FLIP FLAP」をふと聴こうと思ったら、タイトルの横に「TO-MAS feat.Chima」ってあったわ。で、TO-MASっていう音楽グループのメンバーに伊藤真澄がいるっていう、何という偶然。選評そっちのけでこの曲について話したい。キャッチーでどこか癖になる主旋律、「不思議さ」を追及するストリングスと、後ろでガチャガチャ鳴っている変な音の数々。そのうちに世界観に引き込まれていくが、ここでアウトロを長くしたのは天才的だと思う。深夜アニメ史に残すべき名曲だと思っている。

さて、歌唱のChimaであるが、良くも悪くも平坦である。あえてダイナミクスを抑えながら、優しく歌いかけるような感じ。前述した伊藤真澄もそうだが、曲の至るところでコーラスがMixされている。どこかレトロチックでアダルティーな雰囲気が出ているのはそのためだろう。ただ、伊藤真澄と違うのは、ストリングスサウンドの迫力は抑えめで、ベース、アコギの音が使われている点。現代的なシンガーソングライターの楽曲という印象。

アコースティックな音源を使った曲以外にも、電子音をガチガチに使った曲があって、「ありふれたいつか」と「urar」になる。アルバムを何周したか分からないが、結局この二曲が飛び抜けて良いと感じてしまう。Chimaの声の醸し出す「無機質感」(特にコーラス)と電子音が上手くマッチして、神聖なイメージが肌に合うみたいな感覚。コーラスの入れ方にしてもドラムのアプローチにしても、とにかく、あらゆる部分が聴いていて面白いし、心地いい。「ありふれたいつか」とか、裏でPAN傾けて鳴っているチチチチって音(ハイハット音とは別にある)を何故入れようと思った。結果連想するのは、昔の記憶とか、薄汚れた制御装置とか、やっぱ「無機質感」と「レトロ感」に収束するわけで、わけわからん。

アルバム『冬のおはなし』『夏のおはなし』ももちろん聞いた。とてもいい。だが、おすすめするなら断然この『nest』である。
 



music.apple.com
チェロを持ちながら歌うのカッコ良すぎる。


selector infected WIXOSS』のOP主題歌で有名。その他アニメ主題歌多数。ボーカリストチェリストである。


今年、一番聞いたアルバム。分島花音と言えば、このアルバムから音楽性に変化があると言われている。ヴィジュアル系バンド『MALICE MIZER』のギタリスト・Manaが多くの曲をプロデュースしていた前回盤から、今回では分島花音が全曲作曲し、編曲家も一新。チェロを主役に置いたゴシック・クラシカルな楽曲からジャズ風の楽曲、ロック、ポップ志向の楽曲まで、幅広くこなす。具体的な変化としては、弦楽器以外に打ち込み(とすぐ分かる)音源を多く使用していたものから、アコースティックな音源を使用するようになった。リード曲「killy killy JOKER」や「ツキナミ」のようなアップテンポな曲は前回盤にはあまり見られない。

Manaがプロデュースしていた時のアルバム『少女仕掛けのリブレット ~LOLITAWORK LIBRETTO~』よりも『ツキナミ』を選んだのは、単純な好みもあるにはある。が、主な理由としては、チェロとの融合という点において分島花音自身の楽曲性を確立している点と、編曲によるものが大きい。やはり、チェロとアコースティカル(弦楽器だけでなく、ギターも含めて)の相性の良さというのが、際立っている。その点、チェロの主張は控えめになってしまったが、メリハリをつけて部分的に挿入されることによって、むしろ曲中の展開の変化を豊かにし、良いアクセントとなっている。例を挙げると、一見すれば良くあるキャッチーなアニソンである「killy killy JOKER」「サクラメイキュウ」では、それぞれの間奏とサビにチェロを組み込むことによって前述した効果がある。

「チョコレート」では落ち着いたクラシカルな雰囲気、「signal」のバラード、「ファールプレーにくらり」ではロリータ、カワイイ系の雰囲気で、分島花音の対応力の高さが垣間見える。何度も通して聴くうちに、この三曲を特に好きになってしまう自分がいた。

あと、編曲の変化について、『少女仕掛け』の楽曲「プリンセスチャールストン」と『君はソレイユ - EP』のカップリングのそれと聴き比べてみると、分かりやすいかもしれない。この曲はマリスミゼル時代では珍しい分島花音作曲であり、カワイイアップテンポ系。今でも、この曲が一番好き。この曲のライブの時の分島花音が一番可愛い。正直、結婚したい。

アニオタにとって分島花音と言えば大体「WIXOSSの人」というイメージがあると思われるが、その実、このようなザ・アニソンな曲は少ない。まずは、『ツキナミ』を聴いて、分島花音の世界に浸かってみるのも良いだろう。
 



music.apple.com
music.apple.com
レヴュー曲とは、モラトリアムの全てである。


これを入れさせろ。今年のアニメ映画は豊作だった(らしい)が、中でも圧倒的に異彩を放ち、結果的に多くのキリンを生み出した怪作にして傑作『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のアルバム。そのレヴュー曲をリード曲に、その他劇伴が収録されている。今回はあくまで、アルバムと同時にアーティストを選出する企画なので、二枚のアルバムの劇中歌のみ参照したい。アーティストは、スタァライト九九組、とでも言えばいいのだろうか。

劇場版スタァライトを傑作たらしめる一つの要因が、この「レヴュー曲」にある。一般に舞台で使われるようなクラシカルで伸びやかな楽曲のほかに、ロック、民族音楽、ジャズなど様々。それは作品内の少女のクソデカ感情の波を表現したからに他ならない。結果として、曲中の展開、変化には注目せざるを得ないわけで、一種のキャラクターソングとしては独特な味わいとなっている。レヴュー曲の特徴は、歌詞がそのままキャラクターの内面に直結しているという点。メタフィクションと演劇を組み合わせる演出形態ならではの楽曲なので、やはり映像との噛み合わせを味わってほしいというのが本心ではある。

中でも、ワイルドスクリーンバロックの開幕を宣言した「wi (l) d-screen baroque」は、最も印象に残りやすいだろう。変拍子と度重なるテンポ変化で、まあ「変な曲」なのだが、音楽的な面白さは語るに尽きない。ドラムに注目すれば、サンバキック→四分打ち→8分の6のマーチング→……のように、曲の展開が著しいことが分かる。ただ、これに関しては、実際に聴いてもらうのが吉だ。ぜひ、劇中のキャラクター・大場ななの空虚感とエゴを感じとって欲しい。その他レヴュー曲も素晴らしい出来である。何というか、プロの狂気を見たという感じ。

異質なアルバムであるが、作品を知らない人にも、ぜひ聴いてほしい。
 


たった5選なので、選評に漏れてしまったアルバムがたくさんあります。いずれも素晴らしい作品ばかりでした。特に気に入ったアルバムを、ここに共有いたします。
 

総括

今年、私のブログ「理工系のアニメ日記」を開設して、その年はもう終わります。アニメ感想・批評とありますが、字数ばかり増えて、結果読みづらい記事ばかりになってしまいました。しかも、堅い記事ばかりなので、エンタメ志向の楽しい記事というのはほとんどありません(これからもこの方針で行きます)。でも、今回は、自分の好きなものを思う存分語りたいということで、久しぶりにワクワクして記事を書いていました。来年も、本ブログをよろしくお願いします。

フラ・フラダンス 感想

アニメ映画『フラ・フラダンス』感想

フラ・フラダンス

 

基本情報

 

はじめに

東日本大震災の被災三県(岩手県宮城県福島県)を舞台とするアニメ作品を発表する企画の一環として制作された作品。総監督は『UN-GO』『楽園追放』などの水島精二。かつてフラガールだった姉を亡くした主人公が、新人フラガールとしてデビューし、新たな仲間と成長を遂げていく。
 

感想

十年前の悲劇から。あの凛々しいプアラはもう戻ってこない。それでも、スパリゾートハワイアンズは決して屈することなく、フラガールたちは笑顔を絶やすことなく、前に進み続ける。忘れ形見のマスコットに姉の姿を重ね、夏凪日羽(なつなぎひわ)は、今日も踊って笑っての繰り返し。目指せ、ひまわり笑顔のフラガール

というわけで、アニメ映画『フラ・フラダンス』である。主人公のCVは、福原遥。言わずと知れたクッキンアイドルであり、キュアカスタードの声優でもある。その他主要メンバー四人も売れっ子女優&声優がCVを担当しており、技術的な面では安心。配役もぴったり。ただ、男性キャストは違和感が残る。

先にアニメーション的な評価をしておくと、大島ミチルの劇伴ぶつ切りのコンテワークは場面切り替えで唐突感が生まれてしまって、あまり良いとは言えない。そして、一番の違和感は日常、ギャグ、シリアス、そういった浮き沈みの感情を同一線上の演出で済ませてしまっているという点。場の雰囲気を重視する「雰囲気アニメ」ならともかく、本作にそういった要素は見当たらない。特に、ギャグシーンはもっとギャグシーンらしくて結構なのだが。その点、三人が大泣きしながらチョコかき混ぜるシーンとかはとても良い。

後述するが、本作の良点である「あえて節目を作らない演出形態」は、細かな場面単位で抑揚のある演出と同居不可能ではないので、やはり作品全体で地味さが先行しているのは勿体ない。

フラダンスシーンは手書きに寄せたCG感で、動き表情の滑らかさを表現するには良かったのではないだろうか。だが、そもそも極めて細部の表現が難しいダンスシーンをリアルに寄せるのならば、最初から実写でやればいいだけの話だ。その弱点を跳ね飛ばすほどの演出的インパクトやカメラワークの趣は、率直に言って見当たらない。

では、内容面に入ろう。日羽の「仲間」は大きく二つ、高校の同期と新人フラガールの同期なのだが、いずれも夢を追う者同士。ここに、ある種の対比表現として、面白い部分がある。高校同期にとっては、日羽はいわゆる「成功者」であり、浪人生と美容師を目指す学生にとっては「踊って稼げる」のが羨ましいと。

当然、日羽には大きな障壁がいくつも存在するわけで。しょっぱなからフラダンス未経験の自分を周りと比較して気後れすることもあり、実力がすぐ周りに追いつくこともなく、遅刻して叱られることもあり。まあ、最後のは完全に彼女自身の責任なのだが、不安と焦燥に駆られる彼女の姿を見れば、現実の厳しさは伝わってくる。加えて日羽は、小学生の時に姉を亡くしている。十九歳の今もなおマスコット人形に亡くした姉を重ね合わせ、悩みの種をぶつけるくらいには、頼れる存在であった。

一方で同期のフラガールである。可愛らしい呼称に「パンダじゃない」と反発する鎌倉さん、コミュ症全開のしおん。必然と言うべきか、蘭子とオハナ、日羽の三人が最初に打ち解けて徐々にチームワークを作っていく。性格はダンスにも表れ、各人に課題在り。特に日羽のぎこちなさは、体幹とバランス感覚を鍛える経験値が不足しているようで、これが映像でしかと伝わってくるのは良いことだ。

高校同期から見れば夢に近づいた「上」の存在、フラガールとしてはド下手。高校同期の友達も、会話中の日羽の表情からヘビィな現実を汲み取って励まし合えるの、良い友人を持ったなあ。無論本作は新人フラガールに焦点を当てて話を進めるわけだが、時折高校の親友に肩を預けながら、真実それが日羽の成長に影響しており、効果的な場面転換であった。

さて、日羽が一度遅刻した時に、フラガールの「極意」を伝えつつ日羽の個性的な志望理由を尊重して叱る先輩、威厳の中に優しさが隠しきれてなくて好き。ここで、フラガールの笑顔の裏のプロ意識が言語化されるの、マジ大事。「ひまわりのような笑顔を分かち合いたい」の一心で突き進む日羽の個性も出てきて、ようやく時が動いたという印象。

日羽持ち前の逞しさで臨んだ新人デビューの結果は散々。嘲笑の的にされる御一行だったが、心機一転、成長物語にシフト。かんかんの親との間の確執、らんらんの体形問題、オハナのホームシック、しおんの硬い表情。互いが互いを高め合うチームとして、徐々にほつれが解れていく過程には、オーソドックスな群像を見出せる。

ただ、サブキャラたちのドラマは、信じられないほど温い。これは、主人公メインの物語に群像劇を加えたことによる、二時間弱の映画の物理的な欠陥であり、どれだけ手慣れた脚本家でも捌くことは不可能である。具体的な欠点を上げればキリがないが、いずれも場合も障壁が薄すぎる。それぞれが今まで形成してきた人格に立ちはだかる大問題が、そんな簡単に解決されていいはずがない。このあたりの群像は、ほとんどカットか1クールのアニメで描くかの見切りが必要だろう。

さて、ドラマの中心の日羽について。挫折していたときに降りかかる、同じ職場の先輩の鈴懸さんの言葉。スパリゾートハワイアンズの不撓不屈の精神を受け継ぐ者として、再び日羽は兜の緒を締める。コンクリ建築の大きくズレた層を前に、乗り越えられないことは無いことを実感させる。

ここからは、鈴懸さんへの淡い恋心、日羽と真理の姉妹のドラマ、震災復興モノとしての物語が加わり、全体の展開を見る層としてはかなり盛り上がってきたという印象。ここで重要なのは、根幹はフラダンスにありということである。言わば、ストーリーの終着点は日羽のフラダンスが成功し、彼女が何か気付きを得て精神的な成長を得ることである。

この「成功」の部分が果たしてどういうふうなのかという、少しぼんやりした感じもあるが、終盤にははっきり見えてくる。ここに、あえて劇的な演習をしない平坦さを持つ本作の良点がある。本作の明確な着地点は見えづらく、主人公の成長という点において明確な節目が無い。以下は水島監督のインタビュー記事の引用である。

水島:そうですね。日羽に限らず、全編を通して重要なドラマが自然に入ってくるお話なので、ここが節目のイベントだ、という見せ方をしないことが演出のうえでも大事だなと脚本を読んだときに思いました。

映画『フラ・フラダンス』 水島精二が語る「総監督の“お仕事”」② | Febri

登場人物の”自然な”進歩を描く表現としては、お誂え向きであろう。現実路線で律儀といったドラマ作りの印象を受ける。

結論から言えば、日羽やその仲間たちが「自分(たち)らしく」踊れることがゴールである。もともと、日羽はフラダンサーとしての社内評価は最下位だった。ダンスが上手い訳でも愛想が特別いい訳でもない。ただ一つ、彼女が持ちうる才能が、常に一生懸命なところである。日羽の個性ここにありで、スパリゾートハワイアンズはそれを必要としている。悲劇の日から立ち直れたのは、フラガールの笑顔に多くの人々が支えられたからだ。

らしさを発揮するために、チームは試行錯誤を繰り返す。行き着いた答えは、ポップでモダンなアイドル風のフラダンス。オリジナリティ満載で臨んだ全国大会は、会場を沸かせ、笑顔を共有することが出来た。結果こそ奮わなかったが、ここで先生に褒められる場面を入れたのは、プロのあるべき姿を認められたことを意味しているようで、より彼女たちの真剣さを際立たせるのに大事なことだと思う。

話が前後するが、日羽は淡い恋心とちょっとした失恋を経験している。さてその相手の鈴懸さんであるが、おそらく姉の真理の想い人で、彼にとって真理はかけがえのない存在だったはずだ。それに比べれば、日羽の失敗談などちっぽけな話。前を向ける日羽なら、立ち直ることなど容易いことだ。この日羽の失恋をコメディっぽく描いているのはしっくりくる。並行して描かれた平マネージャーと頼れる先輩塩屋崎さんの結婚報告は、暗い話ばかりにならないための良い材料となっている。

では、クライマックスシーンである。姉が憑依しているマスコットとの別れの会話。人形の中の姉は天に昇り、突然、あたり一面にひまわりの花が咲き誇る。『天体のメソッド』か? 日羽はひまわりの道を駆け抜け、大声で叫ぶ。「ここにいるよ」と。

なんともファンタジックな展開であるが、ここには多くの意味が込められている。まずは、日羽がフラガールとして成長した証。日羽はフラダンスの仕事で紆余曲折を経て、最終的には一人前のフラガールとして認められている。大事なのは、日羽自身がそれを知ったということである。すなわち、自分はフラガールとして今ここにいるという誇りの現れである。

次に、姉の存在を永遠のものにするという点。このあたりは映画トロプリの感想でも書いた。姉が亡くなっても、姉の想い全てを受け取って生きていく存在=日羽はいて、日羽の中に姉はいる。このあたりは、死者に対するメッセ―ジともとれるだろう。

また、スパリゾートハワイアンズの壊れた壁に象徴されるように、今日日羽が受け継いでいるのは、過去の人々が苦しさを耐え忍んで作り上げたものの集大成だ。その中の一つが、かつてフラガールであった真理の冠名「プアラ」に他ならない。日羽は今後、塩屋崎さんからプアラを引き継ぐことを示唆されている。これも同様に、時を超えて受け継ぐ存在がいるという意味での、「ここにいるよ」である。先人たちへの敬意が込められているのも、忘れてはならない。

最後に、被災者に向けたメッセージである。結局、本作が常に何を重視していたかと言うと、災害に遭った人々の努力と、前を向き続ける意思である。日羽が十年前に味わった絶望から、姉と同じ道を辿り、悲劇を受け入れ、自尊心を取り戻した。この一連のストーリーはいわば「被災者の成功体験」である。つまり、未来への希望という意味合いが込められている。視聴者は日羽と自分を重ね合わせることによって、どんな困難も乗り越えられるというメッセージを受け取ったはずだ。

以上、内容面についてはこれで終わり。あとは、ファンタジックな現象に対するあれこれ。結論として、人形に姉が憑依しているという設定を持ち出したのは、ストーリー分析的に、ひいてはドラマ作りとしても正解である。

これにより本作は、本ブログで度々批判している(することになるだろう)自己完結のストーリーを回避している。普通は、人は他者の言葉によって気付きを得、変化する。本作も日羽は人形=姉との会話で、自信をつけたり、姉の死を受け入れて成長したりする。ここで重要なのは、日羽は人形自身が意識を持って喋っていると思いこんでいるということだ(ごっこ遊びではない)。そのため、日羽とその姉の真理のストーリーには、それなりの強度がある。

まあ、色々述べてきたが、映画の完成度自体は高くない。特に、中盤のチーム仲間に焦点を当てた話は、無いほうがマシなレベルだ。それでも、好きになれる部分は確かにある。そうでなければ、こうして記事を書くことも無かっただろう。あと、フィロソフィーのダンスの主題歌は、間違いなく今年のアニメ映画のベスト候補に挙がってくるほど素晴らしい。いい映画でした。ありがとう。