波路を築く

アニメの感想&批評

映画 トロピカル〜ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪! 感想

映画 トロピカル〜ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!

基本情報

 

はじめに

秋の季節となりました。記事をしばらく書かなかったのは、大して忙しくもないのにも関わらず大学の授業やら何やらにかこつけて、サボることの正当性を自分に言い聞かせていただけです。決して作品に触れていなかったとか、アニメから離れていたとか、そういう理由ではございません。申し訳ございませんでした。思ったことをそのまま口に出す感想の題材として、今回は映画トロプリを選びます。ちなみにプリキュアの映画を劇場で見るのは初めてです。

ネタバレ全開です。
 

感想

現実の季節とは裏腹に、平常通り常夏模様のトロプリ主人公、夏海まなつである。いや、沖縄の街がモデルと言われているあおぞら市は実際に暖かいのだろう。そんなわちゃわちゃ気分のトロピカル部一行が向かう舞台は、一面銀世界の雪の王国「シャンティア」だ。シャンティア王国の王女「シャロン」は、次第に心の冷気を幽かに醸し出し、やがて堕ちる。凍てつく花に寄り添って、氷を溶かすことが出来るのか。

そんな感じの映画トロプリであるが、今回はゲストキャラとしてハートキャッチプリキュアの面子が登場である。心の花のようなハトプリ要素もちょいちょいある。そして、脚本はプリキュアおなじみ成田良美氏である。ハピチャ以降プリキュアの脚本を受け持つ機会は減ったが、ハトプリでは8話ぶん書いているらしい。やはり、ハトプリ勢のキャラクターの描きが上手い。

未来予想図で子供がよく書きそうなテクノロジーを感じるビデオレター式招待状で、シャロン戴冠式に招待されるトピ部。そして、列車でワープするような演出。御伽噺みたいだとまなつは言っていたように、この“御伽噺”というキーワードが、個人的に結構大事に感じる。

ファンタジーなシャンティアは、美術も対照的である。鋭い光が射し、現代的な建物がずらりと並ぶあおぞら市に対し、シャンティアの雰囲気は不気味なほどにほんわかしすぎている。後にシャンティア王国が一度滅びた冥府だと明かされるが、このシビアなサプライズはよく効いていたし、我々大人の視点で映像表現を振り返ってみると、型破りな世界だと思わせる描写は確かにあった。

常夏で生まれ育ったまなつは、雪にシロップをかけてそのまま食べようとするほどに、冬の世界を知らないので、大はしゃぎである。さすがに雪にシロップかける中学生いねえだろ……と突っ込みたくなるが、このあたりは映画プリキュアらしくてむしろ好きだ。70分という短いフィルムの中で、フル尺+αの変身シーンや必殺技シーンを入れつつ、子供向けのエンタメ要素を存分に組み込み、お話を描かねばならない。このまなつのアホさ加減で、ちょうどいいのだ。雪は衛生的に良くないという、みのりん先輩の注意付きである。

子供向けと言ったが、シャロンのCVは女優兼声優の松本まりか氏である。シャロンは劇中で豹変するのだが、仮面と真実を使い分ける演技は、正直なところあまりハマらなかった。監督によれば、「プリキュアとほぼ同年齢でありながら、複雑な状況に置かれている設定、そういったところをしっかり演じられ、さらに、プリキュアのような可憐な女の子の声であってほしい」とのことだ。なるほど。自分はうえしゃま大好きなので、ハーモニーのミァハ、カリギュラのμ系の上田麗奈が見たいと言って安直に起用するが、元々は大人びたお姉さんイメージなので、中学生ではないよなあと勝手に納得した次第である。パンチ効きすぎてもかえって毒になるかもしれない。

本作の主人公はローラである。物語前半は、ローラとえりか、ローラとシャロンという二つの関係性を軸とし、さらに二つのストーリーが相補的に絡み合い、構造的には見所があった。ローラを一番近くで見ていたまなつは、彼女の不安や苛立ちの原因を適切に汲み取って適切な助言をし、役割的には彼女のサポートに徹していた。結果的には、二つの関係性の悶着状態を良い方向へと導いたが、このようなクレバーな役割はTVシリーズではなかなか見られないものだ。それも含め、劇場版の醍醐味である。

戴冠式のゲストとしてステージに立つ予定だったローラたちのコーデを決める段階で、まずはローラとえりかの諍いである。言いたいことを思わず口に出してしまう性格はお互い様で、例えそれが相手の気分を損ねることがあっても、その状態を客観視する余裕のないヒートアップ状態に、時にはなってしまう。それゆえに、第三者の指摘、助言が必要なのだ。まなつとつぼみの役回りはそこにある。

“らしさ”を存分に発揮した個性的なコーデは、ファッションデザイナーを夢見るえりかの意見によって、一度は棄却されてしまう。目立ちすぎ、ステージに上がるのはローラだけではないと、これらは間違いなく正論である。それがローラの反発を生み、仲たがいする。まなつが陽気に運んできたアイスには目もくれず、ローラは立ち去ってしまう。ここからは、キャラクターのペアが様々な形を帯び、相互に関係を与える群像のような構図になる。その中で、メインストーリーはローラとシャロンのペアに注力して描かれる。

ローラとシャロンは、互いに王女になる(なりたい)もの同士として打ち解け合う。笑顔の国を願うシャロンは、ローラにも幸せを分かち合おうと指輪に祈りを込め、ローラにプレゼントする。託したものは目に見えるものだけではなく、歌もまたそうである。これらが後々キーアイテムとなっていくのだが、シャロンが真実ローラの幸せを願っていたことが後々明らかになって、心暖かい気持ちになった。

陽→陰への切り替えもスムーズで、ここでローラの強がりと寂しさといったものが、鮮明に描かれるストーリーとなる。プリンセスとして責務を果たす決意に対する不安、祖国を滅ぼされ、襲撃から一人逃れたことへの寂しさや怒りといった負の感情は、これまた本編中ではあまり描かれなかった側面だ。そしてローラは、鏡映しのシャロンの心の奥に強い違和感を感じとる。シャロンを切り取る画角は斜めったりあおりの構図だったりと、不安を煽る描写となっている。

まなつとえりか。本当は寂しい気持ちが心の中にあって、強がって生きているというえりかの指摘。かつて自分が抱えていた問題に幾度となく向き合った彼女は、先輩らしくローラを適切に見据えている。二人の会話を経て、まなつは、ローラといることが楽しいという想いから、ローラに寄り添うことを決める。

そんなこんなで、互いの立場に寄り添った二人は仲直りである。ローラの個性を尊重しつつ改善案を出すえりかのデザイナーとしての実力も発揮された。えりかの言う「つぼみのように間近で見て分かってくれる人」は、ローラにとってはまなつになる。

場面は変わり、これまで伏せられてきたシャロンの闇、シャンティアの真実といったものが徐々に明らかになり、重苦しい雰囲気が押し寄せる。シャンティアは一万年前に滅びた冥府であり、次期王女であったシャロンは全てを失った国家を眺め、そのまま絶命した。彗星の力によって目覚めたシャロンは、どのような手を使ってでも新たな力で国を再生しようとする。

ここで変身シーンであるが、俺は劇伴オタクなので、フル尺大画面と映画館特有の音圧との相乗効果で引き込まれて感動してしまった。映画全体としても、様々なジャンルや楽器を駆使した劇伴は、異国の地な感じ全開で良かったのではないだろうか。ハトプリ変身シーンもオケ融合でガッチリ仕上げてきたの、まさに映画スタッフのやりたいことだったでしょ。

雪の王国の再建に囚われたシャロンは、他人を傷つけることを厭わず、無情にも怪物の力を奮っていく。互いに幸せの国を創ることを望み、友好関係を約束したローラとの対比として、シャロンの拭いきれなかった後悔や諦念が荒れ狂った心の闇を作り出し、大吹雪となって現れる。ホラー的な演出は従来のプリキュアシリーズを振り返ってみても異色であった。

後悔と言うには、仮に時が戻ったとしてもシャロンの力ではどうにもならないような理不尽さだった。そのため、女王として家族や国民、そして美しい国を守れなかったと述べる彼女の重責には、計り知れないものがある。一人で抱えるには、あまりにも重すぎた。

シャンティアに呼び込まれた人々が「誰かを笑顔にすることが出来る人」というのは、シャロンの砕かれた理想を表現しており、切なさが込みあがってくる。愛を知り愛を与えてきた者であるがゆえに、全てを奪われる理不尽への抗いを諦めきれない。逆に言えば、笑顔で溢れる世界を望む心は自身の性質として本来備わっており、それを受け取り叶えてくれると信じ切れる存在がいれば、それは理不尽を飲み込むための鍵となり得る。

やはり、手を差し伸べたのはローラであった。故国を滅ぼされた悲しみを持つ者同士、幸せの国を望む者同士、友達同士。同じ思いを持つ者であるが、ローラは生者で、シャロンは死者である。かつて葬られた国の全てであるシャロンの彼女の幸福を叶えるために、生者であるローラが寄り添い、何が出来るのか。

本作は、心の花を溶かすキーアイテムとして「幸せの指輪」と「歌」を掲げているが、いずれもシャロンがローラに託したものである。本当は止めてほしかったというシャロンの内なる想いに、説得力がこみ上げてくる。次第に彗星の力が弱まり、シャロンが望んだ理想郷は氷を溶かしていく。同時に、その理想郷が永遠でないことが示唆されて、別れの物語を前面に押し出す。

シャロンが望んだ笑顔の国、シャンティアにも春が訪れ、一層美しい世界となる。その世界は儚くも終わりを告げるが、そこにあった幸せや笑顔は虚構ではない。未来を見据えるローラ達のカーテンコールは、現実を受け止めつつも、シャロンやシャンティアの想いを受け取り、その存在を確かなものにする。

下を向いて咲くスノードロップは、上を向くことはないけれど、希望を象徴する花である。死者であるシャロンの奇跡は間も無く終わり、シャロンという存在は消えてしまうが、果たしてそれはシャロンが存在する前の無と同等であるかと言われれば、否と答えるだろう。想いは、未来へ繋がっていく。

時を超えて想いは繋がっていくという命題は、情緒的であり、大切であると思うのだけれど、「死者の希望の実現は死者の幸せとなり得るか」を考えたときには、多かれ少なかれ哲学的な要素を認めることが出来ると思う。主体は消えてしまったが、主体の想いを受け継ぐ者はいる。かくして、死者の想い恒久性を認めることが出来れば、シャロンがローラに願いを託すことがそのまま彼女の幸せに直結するという風にも考えられる。

終わってみれば、シャロンの過去は重く、シャロンやシャンティアともお別れといった、ビターづくしの映画だった。先ほど「御伽噺」と言ったが、シャロンのように、理不尽によって大切を失い引きずってしまう人は、現実のどこにでもいる。なかなか歌一つで救いになるというわけにもいかないだろう。だが本作は、虚構の世界に手を伸ばすことで、逆説的に「生者として出来ること」を我々に説いている。シャロンやシャンティアが滅んだ運命を変えることも無ければ、時を戻すこともない。本作は、夢物語を描きつつも現実を見据えた物語であり、ただ夢を虚構で終わらせず、そこから得られる本当の意味で大切なメッセージを示しているのだ。

初めてのプリキュア映画は大変面白かった。プリキュア映画自体は、同監督の春のカーニバルとハピチャあたりの映画を数本見ているのだが、本作はそれらと打って変わってビターな味わいだった。変身シーンはまさに劇場に来て良かったと思えた瞬間で、フル尺変身を採ったスタッフさん、ありがとうございます。

【ストーリー分析】サクガン 第1話『FATHERS & DAUGHTERS』(感想・考察)

サクガン 第1話『FATHERS & DAUGHTERS』

次回→

基本情報

  • 監督:和田純一
  • 脚本:和田純一
  • 絵コンテ:和田純一
  • 演出:三塩天平
  • 総作画監督:望月俊平
  • アニメーション制作:サテライト

 

評価

B エモーショナル、ウィーク
 

総評

第1話は、主人公の決意が描かれる回。未知の世界に旅立ちたいと願う少女と、そうさせたくない父親の二つの視点が交互に、あるいは俯瞰して描かれる構成となっている。世界観や設定の提示についてはやや説明的であるが、登場人物の熱量を感じられるエピソードである。ただ、メメンプーが夢を見る動機が足りていないという印象を受ける。少々厳しいかもしれないが、B評価とする。
 

ストーリー

メインストーリーは、
①メメンプーはマーカーになることを願うが、ガガンバーはそれに反対する
②メメンプーが再びマーカーになることを願う
③ガガンバーは、メメンプーと共にマーカーになることを決意する

である。

サブストーリーは、
(ⅰ)リンダとウォルシュが戦死する
(ⅱ)世界観や設定の提示

などがある

ストーリーは、①→(ⅰ)→②と進んでいく。はっきり言って、メメンプーが再び夢を見るのに十分な動機が描かれているとは言えないのだが、それについては後ほど見ていくことにしよう。
 

分析

視聴者に対する大まかな設定の提示は、序盤に流れるラジオにて行われる。「マーカーはラビリンスという危険が多い地に旅立つ職業」くらいの認識で良いだろう。

マーカーになってラビリンスに飛び出すのは危険なことであると、ガガンバー(父)はメメンプー(娘)に言うが、聞いてくれない様子。ガガンバーはメメンプーがマーカーになることを許していない。

この時点で、メメンプーはマーカーが危険であることを知っていてもなお、夢を追い続けているというのは注意したいポイントである。彼女の賢さは、飛び級で大学を卒業した頭の良さと共に、自分の置かれている立場を客観視できるほどの精神力を持ち合わせていることを示している。

「私はどうしてもあの景色を確かめたいんだ」とメメンプーは言うが、そう感じるに至った経緯は、後のリンダとの会話にある。リンダは現マーカーである。

リンダ「女マーカーウロロップは、ラビリンスを踏破してマップを完成させたという話だ」
メメンプー「ああ、ロマンだ!」
要するに、メメンプーを突き動かすのは、未知の世界に足を踏み入れることのロマンに抱く好奇心だ。人間ならば誰しもが持ちうるその情熱は、数ある「冒険譚」の作品群に共通するテーマとなっており、本作もそのセオリーを踏襲している。

ガガンバーはわざとらしくメメンプーにマーカーの危険さを伝えようとするが、メメンプーには響いていない。リンダには「超ダセえ」と罵られる。

ここでBGMを利用した面白い演出がある。それは、“同じ曲中”のパターンの切り替えによって登場人物の内なる感情を効果的に示すというものだ。シンセサイザーの電子音→ピアノの切り替えに注目したい。
[9:08]流れるように変化する曲中のパターン(ポップ→しんみり)

これによってガガンバーには、メメンプーがマーカーになることについて、前述した「父親として」の理由のほかに、何か個人的な理由があることを示唆している。それはすなわち、「ルーファス」という人物に関係することだ。

さて、メメンプーの元にウロロップからの送り物が届き、メメンプーはそれが本物のウロロップからのものだと確信する。必然的に親離れを想起させるメメンプーの夢を前に、叶えてあげたいという情動と行ってはいけないという理性で揺れるガガンバーの葛藤が描かれるのも良い。
[16:45]未踏の地に憧れるメメンプーとリンダ

ラビリンスに突然現れた怪獣に遭遇したメメンプーたち。リンダはメメンプーを船上から遠ざけるよう、ガガンバーに支持する。メメンプーはそれに抵抗しようとするが、リンダは「お前は子供だ」と制止する。

その際の、ウォルシュの微笑のカットが良い。リンダとウォルシュ、ガガンバーは、「正しい大人」として、メメンプーは「間違っている子供」として描かれている。

自信満々に戦場に飛び出したリンダとウォルシュは、別の怪獣の不意打ちを喰らい、あっけなく戦死する。このあたりは、陽→陰の切り替えが早く、心揺さぶられやすい展開となっている。

目の前の景色に呆然とするメメンプー。娘を案じて「マーカーになるな」と言うガガンバー。世界の厳しさを知らなかった子供の夢を拒絶する大人という構造。
[21:24]娘の手を引くガガンバー

メメンプーは「怖くて、どうしようもない。街がぐちゃぐちゃになって、ウォルシュとリンダも……。それに、ガガンバーはそんな辛そうな顔をしている」と言っている。大切な人が死ねば、大人だって悲しいことを知っているメメンプー。

それでもメメンプーは、「あの景色を見てみたい」という。このあたりは、壮大なBGMと迫真の演技により、エモーショナルな展開となっている。

ウォルシュに教わり導き出した「父親としての在り方」を以て、ガガンバーはメメンプーの願いを引き入れる。マーカーの機体に乗ってエピソードが終了するという、王道的な展開である。

ただ、ガガンバー→メメンプーは良いのだが、メメンプーがマーカーになりたいと願う理由が、(父親の思いを知ってもなお願い続けるほどの)強い好奇心では、さすがに弱いという印象を受ける。

前提として、メメンプーはマーカーの危険さ、世界の厳しさというものを理解しており、大切な仲間の戦死を前にしている。それに、メメンプーは年齢以上に分別のある子供だ。そんな子供が、危険な世界に直面する職業に好奇心だけで夢を抱けるのだろうか。

無論、メメンプーの性格上の問題と言えばその通りである。それでも、危険な世界と自分の命を天秤にかけている(かけてすらいないともとれる)状況の違和感は無視できるものではない。彼女は「私はおかしいのか?」と何度も問う。答えは「はい」である。

何より一番の問題は、この描写によって、これから死に直面する旅に出かけることに対する悲壮感が少なくなるということだ。9歳の子供とはいえ、もっと生と死の狭間で揺れる葛藤を描いても良かったのではないだろうか。

メイドインアビス』を例に挙げたい。こちらも「冒険もの」の一種で、危険な地「アビス」に旅立つ主人公の姿を描いている。この作品の主人公がアビスに向かう動機としては、好奇心、レグ(謎の多い仲間)という存在、アビスにいる母からの手紙という要素がとれる。単なる数の問題とは言わないのだが、やはり本作におけるメメンプーの動機は、弱いと言わざるを得ない。

ストーリー分析的に言えば、ストーリー(ⅰ)→②の強度が低い。以上の理由により、B評価とする。
 

補足

1. 基本設定

ラジオ「ここは、アンダーワールド。硬い岩盤で覆われた(中略)世界はピンチって話さ。命知らずのマーカーたちは、今日もラビリンスを冒険している(中略)大崩壊だけじゃない。怪獣に、最近話題のテロリスト……」
[2:40]マクロな視点で舞台を描きつつバックで流れるラジオ

大体の設定はこれで把握できる。つまり、マーカーは地下世界ラビリンスに旅立つ職業であり、そのラビリンスには危険が多いということだ。第1話において、主要のマーカーはリンダとウォルシュの二人であり、ガガンバーとメメンプーはワーカーという職業についている。

怪獣は第1話で登場した例のメカのことだろうが、テロリストについては未だに分からない。今後、様々な敵と遭遇することになるだろう。


2. ウロロップ

有名な女性マーカー。送り物が届いているということは、まだ生きている? 誰もその姿を見たことがないようなので、想像上の人物という可能性も。
[7:49]ガガンバー「ただの噂だろ? 存在すら怪しい」


3. ルーファス

ガガンバーが口にした人物の名前である。メメンプーをマーカーにさせたくない理由の一つになっているようだが、その真相は如何に。勝手な考察だが、ガガンバーの妻だと思っている。


残された伏線や謎は以下の通り。
①怪獣の正体
②テロリストとは?
③ウロロップのストーリー上における役割
④ルーファスは何者?
⑤ガガンバーがルーファスに抱く感情は何?


これで、サクガン 第1話『FATHERS & DAUGHTERS』のストーリー分析を終える。

日記 10/7 & お知らせ

ストーリー分析

以下の三作品についてはストーリー分析を途中でやめさせていただきます。

  • BLUE REFLECTION RAY/澪
  • 白い砂のアクアトープ
  • Sonny Boy

 
作品自体は楽しませてもらいました。白い砂のアクアトープに関しては、第13話から記事続行する可能性あり。

2021年 秋アニメ

視聴予定リスト

  • 海賊王女
  • 逆転世界ノ電池少女
  • 古見さんは、コミュ症です
  • サクガン
  • 白い砂のアクアトープ(後半)
  • takt op.Destiny
  • 大正オトメ御伽話
  • ブルーピリオド
  • マブラヴ オルタナティブ
  • ワッチャプリマジ!(日曜午前)

 

優先度は低いが以下の作品も一応チェックする。

  • 王様ランキング
  • 鬼滅の刃 無限列車編/遊郭
  • 境界戦機
  • シキザクラ
  • SELECTION PROJECT
  • 月とライカと吸血姫
  • プラオレ!~PRIDE OF ORANGE~
  • 無職転生異世界行ったら本気だす~ 第2クール

 

ストーリー分析の個別記事はサクガンとアクアトープの予定。本数多すぎるので見れないやつも出てくるだろうが、去年の秋(初めてアニメを追った時期)に21作品完走した時のモチベがあればどうにかなりそう。

レビュー

美少年探偵団を終えたので、次回はVivy -Flourite Eye's Song-になりそう。その後は特に決まってないが古い作品でもやろうかな。





美少年探偵団 

若者向けエンターテイメント

 

基本情報

  • 2021年 春アニメ
  • 小説原作(西尾維新
  • 全12話
  • 総監督:新房昭之
  • 監督:大谷肇
  • シリーズ構成:東冨耶子、新房昭之
  • アニメーション制作:シャフト

 

はじめに

 「物語シリーズ」でお馴染みの新房昭之監督と原作の西尾維新のコンビが、全く別の作品となって登場。学園の謎の団体「美少年探偵団」が様々な事件を解決する青春ミステリー。ちなみに、各話のサブタイトルは推理小説家:江戸川乱歩の著作のタイトルを引用している。

アニメーション

 本作は俗に言う「シャフト演出」を用いた作品である。シャフト演出とは、本作の監督を務めている新房昭之が確立したとされる、特殊な配色やアングルの静止画や、素早いカット割りなどを多用するアニメ演出のことだ。しかし、それを効果的な演出として映像的に認めるかどうかは別問題である。そもそも演出とは、脚本で描かれている心理・状況描写を視覚的な情報によって増幅させるための工夫であるはずだ。だが、シャフト演出はあくまでインパクト重視であり、状況描写の工夫を画的に表現することを意図していない。そしてそれが繰り返されるとなると、視聴者は確実に飽きる。そのため、この挑戦的な演出の是非は、作品との相性と演出の匙加減に大きく左右されることになる。

 まず、十年代前後の新房監督作品(例:『ひだまりスケッチ』)よりはかなりマイルドである。比較対象が酷すぎるのもあるが、特に会話劇中で視聴者を飽きさせないレイアウト、カットの工夫は以前より増加し、シャフト演出を控えめにすることで演出のくどさが減っている。また、本作はファンタジー要素を僅かに交えた伝奇的な学園・青春ミステリーなのだが、鮮やかな彩色や記号的な演出などによって、世界観の持つ「非日常感」を巧みに表現している。だが、視聴するにつれて演出に面倒臭さを覚えるのもまた事実である。強烈なインパクトを残そうとしたがために過剰な演出となって、意図せず完全にギャグと化してしまっている部分もある。とまあ、本来はデメリットばかりを生むシャフト演出を、世界観の表現に一役買わせることによって一長一短に仕上げているという意味では、一つ評価できるポイントである。

 偏に本作はミステリー的要素を多分に含む作品なので、会話劇を中心とした推理パートにそれなりの尺を割いている。そこで、作品全体のクオリティ向上に確実に貢献しているのが、アコースティックな音源を使用した劇伴である。「非日常感」とあるように、誇張された世界観とウィットに富んだ会話劇には、オーケストラアレンジやジャズ風の楽曲が上手くマッチしている。このように、小説原作のアニメ化に際し、主にシャフト演出や劇伴によって世界観の統一感を高めているのは、新房監督の過去作にはなかなか見られなかった特徴だ。

美少年探偵団

 男子小中学生五人による謎の団体「美少年探偵団」は、学園の非公式組織。「一、美しくあること 二、少年であること 三、探偵であること 四、チームであること」の四つの団則に基づき活動している。ここで気になるのが、探偵とチームはともかく「美しい」と「少年である」という単語の曖昧さである。

 実際のところ、「美しい」や「美しくない」という言葉は、幾度となく主人公や団長から発せられるため、一義的な結論は出せない(が、メインテーマとなる「美しい」は存在する)。例えば、とある事件や謎の動機を考える上で、主体の自己犠牲の精神が垣間見える仮説は美しいと言うし、性悪説のように、初めから人に悪気があったと推理するのは美しくない、などといったところだ。その中でも注目したいのは、「どのような人間」が「美しい」かだ。第一話では、「夢を追うことは美しい。だが、夢をあきらめることもまた、同様に美しい。ただし、自ら諦めた場合に限る」と団長が述べている。つまり、美少年探偵団の団員として在るべき姿は「夢を追う」、広げて解釈すれば「理想を追う」者であるということだ。成る程、多くを占める推理パートでは、理想的に(ロマンチックに)物事を捉えようとする主人公たちの姿が肯定的に描かれている。一方、「少年である」については比較的明確だ。その意味は、「子供心を忘れないこと」、「何度でも夢を見ること」と序盤で述べられている。

 さて、この時点で一つ明らかになったことがある。それは、本作における「美少年」の解釈では、外見ないし生物学的な性差による障壁が一切取り除かれているということだ。本作の主人公は、作中で美少年探偵団に所属することになる女性中学生である。この構造だけを見ると、周りが美男子だらけでヒロインが一人という、俗に言う「乙女ゲーム」そのものだ。しかし、乙女ゲームセクシュアリティ(生物学的な性の概念)が反映されているのに対し、本作ではそれが排されている。また、外見についても、美少年探偵団の団員が美形であるかどうかは皆目関係ない。すなわち、「美少年」とは全ての人間が持ちうる精神的な概念であり、そこに見た目や性といった価値基準が入り込む余地はない。割り切って言ってしまえば、美少年探偵団のメンバーが美形でなくても、はたまた女性であっても成り立つのである。そのため、本作のビジュアルだけで女性向け作品だと判断すると、それはそれで痛い目に合うだろう。

青春ミステリー

 本作は二~三話完結型の五部構成で、それぞれ異なる謎や事件に立ち向かう美少年探偵団の姿を描いた、所謂ミステリー物に属する作品である。ミステリーの評価基準としては、トリックの斬新さ、ヒントの出し方の的確さ、動機に共感できるかなどが考えられるだろう。ただ、ここでは後述の理由からあまり詳しくは論じることはしないが、少し問題点を指摘したい。それは、主人公の「並外れた視力の高さ」という要素による、ヒントの出し方についてだ。問題なのは、「目」による情報開示が推理の終盤の方であり、しかもそれが今までの推理を覆す大発見である場合が何度かあるということである。これでは、真相に至るまでの過程が実質一瞬であり、今までの推理は何だったのかと拍子抜けしてしまう。普通なら、能力を活かして得た情報をもとに推理をし、少しずつ真相に辿りつこうとするだろう。確かに、本作が重きを置いているのは、あくまで中学生の青春物語だ。その点で言えば、ミステリーの質を論じるよりも、事件や謎に立ち向かうイベントの背後にある心理的ストーリーに注目した方が有意義なのは間違いない。しかし、だからと言ってミステリー要素を見くびってはならない。

 その一方で、事件を解決するイベントと、背後の心理的ストーリーとの結びつきは固いと言えよう。第一部。主人公は十年前に暗黒星を見て以来、その星に旅立つために宇宙飛行士になりたいと願う。だが、その星を二度と見つけることは無かった。さらに、中学生となった現在、「目」の理由からその夢が叶わないことも自覚しており、自分の夢が醜いとさえ感じていた。それでも星を探し続けた主人公は、星の探索を美少年探偵団に依頼する。十年間追い続けた夢を諦めることへの後ろめたさを感じている主人公。そんな彼女が、美少年探偵団との星探しや推理を経て、「夢を追い続ける姿勢」と「夢を諦めること」を肯定し、自身の夢を諦める。そこで主人公は、再び夢を見つけるための場所として、美少年探偵団に入団を決める。

 第三部。ここでは詳しくは述べないが、提示される二つの謎は、いずれも「大切なものは目に見えない」がキーワードとなっている。美少年探偵団のメンバーとしてどこかやり辛さを覚えていた主人公。彼女は、無意識下にメンバーとの距離を置き、自分を卑下することもあった。だが、最終的にはメンバーとの仲間意識、つまり「目に見えない大切なもの」を持ち、互いに気を遣わないチームの仲間として、真に美少年探偵団の一員となる。ご覧のように、本作のミステリーは単体で完結せず、同時に進行する青春物語と織り交ぜることによって、ストーリーに厚みを持たせている。このような多層的な構造が組まれて初めて「青春ミステリー」と呼ぶことが出来るのだ。
 

終盤

 ここまで来たら、本作のメインターゲット層は明確だ。ズバリ、中学生の男女、もっと広げれば若者向けといったところか。先ほども指摘した通り、決して女性向けなどではなく、全ての若者に向けて普遍的なメッセージを投げかけている。果たして、本作のメインテーマとなる「美しい」の定義とは一体どういうものなのか。

 結論から言えば、「含羞を込めて昔を語れるような、思い出となる今を生きる」ことを「美しい」としている。これが詳細に語られるのが、第五部だ。第五部は、主人公の生徒会長選とひき逃げ事件が並行するストーリーである。美少年探偵団はひき逃げ犯を突き止めることになるのだが、一方で生徒会長候補者として立候補すると主人公に身の危険があることを知る。団長は主人公に向けてこう言う。「もうやめようか(中略)こんなのは、子供の遊びなのだから」と。だが、主人公は「絶対やめない。こんなのは子供の遊びなんだから」と反対する。つまり、子供の遊びを「美しい」と肯定した上で、美少年探偵団の一員として常識よりも美学を選んだのだ。美少年探偵団の一員として生きることが主人公の成長に直結するストーリーは描かれているため、この選択には説得力が生まれている。また、恒久的な成長否定にならないよう、子供の遊びは美少年探偵団にいるうちだけだとしている。「美少年探偵団」という子供の遊びは、含羞を込めて語れるような青春のひと時であり、だからこそ「美しい」のだ。

 しかし、ストーリー全体を見渡したときに、一つ看過できない問題がある。何がというと、常識よりも美学を選ぶことの正当性を問う場面が少ないのである。言い換えれば、大人の視点が足りていないということだ。確かに、仲間と何かを成し遂げたり楽しい時間を過ごしたりといった青春を送ることは大切だ。若かりし頃の時間は何よりも貴重である。だが、美少年探偵団の面々が自己完結的にこの結論を出すとなると、同じ年齢層の周りに向かって上から目線で説教するという、俗に言う「お前が言うな」状態になりかねない。一応本作は、そうならないための工夫として団長の兄というキャラクターを登場させている。彼は美少年探偵団の元団長であり、言わば「お遊戯」を卒業した高校生だ。彼に出会った主人公は、美少年探偵団の時間が今しかないかけがえのないものだと実感する。しかし、その「美少年探偵団」を良しとするかどうかの吟味が足りていないのだ。やはり、「子供の遊び」を正当化させるために、もっと彼や他の大人の存在を介して話を進めていくべきだっただろう。

総評

 まずまずの青春ミステリー。ただし、重きを置いているのは、ミステリーよりも心理的ストーリーである。



評価:★★★★★★★☆☆☆
 

ストーリー分析について②(『ココロ図書館』第2話までのネタバレを含みます)

ストーリー分析について②
←前回(ストーリー分析について①)


「ストーリー分析」を補足もかねて実践してみる。

使用する資料は、アニメ『ココロ図書館』第2話である。該当作の第2話までのネタバレを含むので、ご留意いただきたい。

実践の前に、ココロ図書館の概要と選考理由について簡単に述べておこう。

本作は、漫画原作(髙木信孝)のテレビアニメ化作品。2001年秋アニメ。監督は『かみちゅ!』『マギ』の監督などで知られる舛成孝二。音楽は保刈久明。アニメーション制作はスタジオディーン。あらすじは、原文ママで「人里離れた山の奥にある小さな図書館。そこには、穏やかで優しい女の子がいて、しっかりものの女の子がいて、図書館と同じ名前の女の子がいるのです」とある。そんな三人の司書の服装はなんとメイド服である。しかも主人公はロリ。一体、誰の趣味なのだろうか。

そんな感じの『ココロ図書館』であるが、良い意味で面白い作品だということは管理人が保障する。第2話は、ストーリー分析の理論を実践するにあたって打ってつけの内容であり、また序盤なので極力ネタバレを抑えられる。

三人の司書が本作の最重要人物である。
   こころ(図書館と同じ名前の女の子)- 斎藤千和
   あると(しっかりものの女の子)- 市原由美
   いいな(穏やかで優しい女の子)- 沢城みゆき

その他主要人物をまとめる
   上沢純(配送業の男性)- 三木眞一郎
   岡嶋朱葉(こころと同年代くらいの女の子)- 金田朋子

では、実際にストーリー分析のフォーマットにしたがって実践してみる。その際、本文に加え補足を交える。
補足→青字、拡大率110%
本文→黒字、拡大率90%

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ココロ図書館 第2話『今のわたしにできること』

基本情報

ここでは、各回の脚本や絵コンテ、演出などの情報をまとめる。


第2話のあらすじ(dアニメストアから引用)

ただでさえ来館者の少ない「ココロ図書館」。その来館者がさらに減ってきていることに気づいたこころたちは、みんなで利用者を増やす方法を考えることにする。手作りのチラシを作って町で配ることにした三姉妹だったが、あるとの何気ない言葉を聞いたこころはショックを受けてしまい…

本記事が概説の役割を担っているために、分かりやすさを重視して用意した項なので、通常は書かない。


評価

A スタンダード

ここでは、各回の評価とその属性(ここでは、形式的にこう呼ぶことにする)を記す。評価の基準は様々であるが、ストーリーの強度を中心とする。評価は主観的なものであり、分析者の独断による。作品全体の評価とはあまり関係ない。

属性は、スタンダード、テクニカル、ストロング、コミカルなど、ストーリーの特徴によって分類わけされる。ウィーク、ミスマッチングといったマイナス評価の属性もある。

評価はA、B、Cの三段階である。評価A、Bのうち、ストーリーの構造に特に優れた点があった場合、テクニカルやストロングといった属性で表す。そのため、一般にスタンダードよりもテクニカルやストロングといった属性が付随している方が、ストーリーが構造的により優れていると言える。

ストーリーの解釈において特に大きな不満点があった場合や、ストーリーの強度不足だった場合には、評価B、Cを下すことがある。裏を返せば、その場合に該当しない限りA評価となるので、全てのエピソードでA評価を取って欲しいものだ。


総評

第2話は、一見こころ回であるが、どちらかと言えば説明回ないし準備回の側面が強い。利用者が減っているココロ図書館で、こころの出した案によって多くの人が押し寄せるという王道的な展開である。しかし、奇妙なのは、それを「奇蹟」として処理している点である。こころの願いが叶ったというストーリーの裏には、何か重大な伏線めいたものが張られており、期待と不安が煽られる回となっている。

ここでは、エピソードの総評を行う。150~200字程度。


ストーリー

メインストーリーは、
①三人がココロ図書館の利用者を増やす方法について相談する
②チラシを街中で配ってココロ図書館の宣伝をする
③大勢の人がココロ図書館に訪れる
である。

サブストーリーは、
(ⅰ)上沢さんがチラシ配りを引き受ける
(ⅱ)あるとが不意にこころを傷つけ、こころが逃げ出す
(ⅲ)こころが立ち直る
などがある。

不満点を挙げるとすれば、サブストーリー(ⅱ)→(ⅲ)の強度がやや不足しているところか。

それ以外は、極めてオーソドックスなサクセスストーリーと、ココロ図書館の「奇蹟」に関する情報の提示などがある。今後の展開に期待できる点も多い。

ここでは、メインストーリー、サブストーリーを述べ、最後に一言コメントを述べる。メインストーリー、サブストーリーの選考基準は、分析者による。


分析

まずは、第2話で初登場した上沢純というキャラクターを見ていく。ココロ図書館の配送業者であり、あると、いいなとは既に見知った関係である。

上沢さんは、いいなに恋心を抱いている。このことは、あるとに「あからさますぎる」と指摘されている。
[5:18]照れながらいいなと会話する上沢さん

さて、利用者が減っているココロ図書館であるが、その対策についてこころたち三人が話し合う。ココロ図書館の宣伝をすることが決定し、その具体的な方法を各自考えることになる。

翌日、三人での話し合い。金銭的に不可能ないいなの案と、「美人三姉妹によるスーパーケア」というあるとの案は棄却され、こころの意見が採用される。

あるとの意見は比較的現実的なものであるが、いいなが「スーパーケア」のサービスの内容を必要以上に勘ぐってしまい、こころの身を案じて断固拒否するという流れだ。このあたりは、ギャグとして処理されている部分もある。

こころの具体的な案を聞く直前にシーンが切り替わり、こころたちが作業している場面へと移る。この流れで、こころの案が採用されたことが分かる。

その内容は、街に宣伝用のチラシを配ることだった。三人はチラシを完成させ、上沢さんにチラシ配りを頼む。だが、配達のついでだと主張するあるとに対して、上沢さんは仕事があるとなかなか引き受けてくれない様子。

そこでキーとなる要素が、上沢さんのいいなへの恋心である。上沢さんは窓の向こうにいるいいなを見て、ココロ図書館のためにチラシ配りを引き受けることを決める。そこでいいなが見えなくなり、動揺する上沢さんであるが、こころとあるとの前で宣言した以上引くに引けないので、結局チラシ配りを引き受けることになる。
[15:31]溜息をつく上沢さん

ここで、起承転結の転に入る。あるとといいなの会話。
「これでいいのかな。チラシ程度で利用者が増えるとは思えないし」
「あるとちゃんは知らないんだ。ココロ図書館はね、”奇蹟”が起こせるのよ。信じない?」
「普通そうでしょ。チラシ一枚で利用者が押し寄せてきたら誰も苦労しないって」

その会話をたまたま聞いていたこころは、あるとの発言をきっかけにココロ図書館を飛び出してしまう。確かに、こころの思いを踏みにじってしまう言葉であるかもしれないが、無論あるとにはそのつもりはなかった。

そこで、あるとはこころに謝ろうと、いいなと一緒にこころを探す。

ここで注意したいのは、あるとといいなに発生する要素および情動である。あるとには、「こころに謝ろうとする」という要素が発生する。これは、ある目的を果たしたいというLドライバーを持つ。同時に、あるとといいなには、「こころを探す」という要素を取れる。ここには、「こころを見つけたい」という情動が与えられるので、Lドライバーを持つ。

あるとといいなに関する今後のストーリー進行で考えられるのは、「あるとがこころに謝る(L)」と「あるとといいながこころを見つける(L)」である。これにより、あるとといいなには「願いが叶う(L―L)」というストーリーの基本形式が与えられる。このようなストーリーに与えられる情動は基本的にポジティブであり、またストーリーはハッピーエンドとなる。果たして、このエピソードではどうなるだろうか。続きを見ていこう。

さて、こころの視点に切り替わり、「来ないのかな。来てくれないのかな。ダメなのかな」とつぶやく。これは、ココロ図書館に本当に人が来るのかという不安と、来てほしいという願いが入り混じっている。

しばらくした後、こころは「私、司書になったんだから図書館に戻らないと」と呟いて図書館に戻る。この展開は、自己完結のセオリーに基づいており、論理性に欠ける。(他者や物事が主体に影響を与えずに、その主体が以前とは違う行動や情動を示した場合、それを自己完結のセオリーと呼ぶことがある)

図書館に戻ったこころは、朱羽とその母親である翠さんに出会う。こころのチラシを見て、ココロ図書館にやってきたそうだ。

こころは、チラシを見てお客さんが来てくれることを願っていた。二人に感謝の気持ちを伝え、涙を流す。
[20:31]泣いているこころ

その後、たくさんの利用者がココロ図書館に来てくれたところを目にする。いいなは、「ココロ図書館は奇蹟を起こせる」「こころが自分の気持ちを正直に書き記したからみんな来てくれた」と言っている。つまり、ココロ図書館にたくさんの利用者が訪れたのは、こころの思いが街に届いたがゆえの奇蹟であると言っている。

話が前後するが、このエピソードには、あるとがこころに謝るストーリーや、あるとといいながこころを見つけ出すストーリーは存在せず、未解決のストーリーとなってしまっている。先述したこころの自己完結とも相まって、サブストーリー(ⅱ)→(ⅲ)は強度に欠ける。

では、メインストーリー③「大勢の人がココロ図書館に訪れる」について考えてみる。これは、「ココロ図書館の奇蹟」によってもたらされたものでる。通常は必然性と論理性共に欠けるストーリーであり、いわゆる「ご都合主義」的な展開だ。しかし、実際にこのエピソードを見て、ご都合主義や強度不足だと感じる者はほぼいないだろう

その理由は大きく分けて三つあると考える。
①こころが利用者に来てほしいと願い、チラシを作って街に配るという、「願い」「問題の解決のための行動」が描かれていること
②いいなは、ココロ図書館に利用者が押し寄せてきたことを「奇蹟」ととらえていること
③本作品には、その他不穏な要素が多々含まれていること

①に関しては、単純な構造だ。「願い」→「問題の解決」というストーリーの間に、「問題の解決のための行動」という要素が挿入されることによって、「何も努力していないのに願いがかなう」という状態を回避している。ラストの展開への説得力は、これがあるのとないのとでは段違いである。

②は、超常現象への説明的な役割を持っている。あるとが指摘した通り、一般的な感覚では、
チラシを街に配ったところで「大勢の人がココロ図書館に訪れる」はずがないのである。その点で言えば、「大勢の人がココロ図書館に訪れる」というストーリーは、「普通起こり得ないこと」であり、説明がつかない。だがこのエピソードでは、「普通起こり得ないことが起こる」という意味合いを含む「奇蹟」という言葉を用いて、論理的な説得力を高めている。

しかし、そもそも「奇蹟」が起こること自体、論理性に欠ける出来事だ。そこで効いてくるのが、③である。本作の第1話だけでも、人里離れた山奥の図書館、司書はロリを含む美人三姉妹、制服はメイド服、こころとココロ図書館の名前は同じ、いいなの愛車は軍事用水陸両用車、など、不可解な点が多く見られる。これら不穏な要素は、舞台の現実感を犠牲にして、代わりにファンタジー的な世界観を構築している。

そのため、本作には、「仮にココロ図書館に超常的な力が宿っていても特に違和感が無い」と視聴者に感じさせるほどのパワーがあると考える。これは極めて感覚的な論考に過ぎない。だが、例えば、舞台を京都の街中にあるありふれた古書店と設定した場合に、メインストーリー③を展開するよりは、ストーリーの強度は高くなるのではないだろうか。

前回の記事では、「ストーリーの強度は、そのストーリーに与えられた情動の流れの自然さや、その情動の数などによって決まる」と定義している。だが、メインストーリー③の強度を判定する際に、メインストーリー③に含まれていない「人里離れた山奥の図書館(ドライバー:P)」「制服はメイド服(P)」といった要素が関与していることが分かる。このように、強度の判定は極めて主観的であり、どの要素が作用するかは分析者の判断によるものが大きい。これで、前回の記事の強度に関する命題「強度の判定は極めて主観的である」の意図するところをご理解いただけただろう。


補足

1. 上沢さん

上沢さんは、いいなに恋心を抱いている。


2. 奇蹟

ココロ図書館には奇蹟を起こす力がある。その力には、どうやら三姉妹の父親が関係しているらしい。父親についてや、ココロ図書館の過去については、今後明かされることになるだろう。


ここでは、そのエピソード内で張られた、あるいは解決した伏線や謎について、重要そうなものをまとめる。通常は、最後に「伏線や謎は以下の通り」といった枠を設けるが、ここでは割愛。代わりに、ココロ図書館らしい伏線を一つだけ紹介する。

それは、第2話冒頭で明かされた、「こころはジョウロで虹を出すのが得意(P)」という説明的な要素だ。実は、この先いつか、こころがジョウロで虹が出せなくなる(F)展開が起こる。もともとジョウロで虹を出せない人が虹を出さなかったところで、Fドライバー(失敗)は持たない。だが、こころが主体となれば、その背後に心理的なストーリーが存在することになる。そのため、この要素には情動を与えることが出来、Fドライバーを持つ。


これで、ココロ図書館第2話『今の私にできること』のストーリー分析を終える。



おまけとして、ドライバー理論で簡単にストーリーを抽象化してみたい。
①三人がココロ図書館の利用者を増やす方法について相談する(E→G)
問題の発生(E)→解決への試み(G)

②チラシを街中で配ってココロ図書館の宣伝をする(G)
解決への試み(G)

③大勢の人がココロ図書館に訪れる(G)
問題の解決(G)[願いが叶う(L)]

メインストーリー全体を最も単純なドライバーに当てはめるのならば、問題の解決(E→G[L])となる。


(ⅰ)上沢さんがチラシ配りを引き受ける
上沢さんは仕事があると拒絶(E)→上沢さんがいいなを見る(L)→上沢さんが引き受ける(G)

このシーンは、実はもっと複雑な構造をしており、ギャグ要素も含まれている。そのため、ストーリーの強度は高い。

(ⅱ)あるとが不意にこころを傷つけ、こころが逃げ出す
(ⅲ)こころが立ち直る
あるとの言葉にこころが傷つき、逃げ出す(問題の発生E)→こころが「司書になったんだから」と言ってココロ図書館に戻る(L[G])→こころが立ち直る(L)(これは、メインストーリー③によってであるため、願いが叶うLドライバーを持たせる)

まとめるとE→L[G]→Lとなる。

E→L[G]の間に、あるとといいながこころを見つける(L)、あるとといいなの言葉によってこころが立ち直る(G)という要素が挿入されれば、よりストーリーの強度は高くなるだろう。さらに、あるとの「こころに謝ろうとする(L)」と、あるとといいなの「こころを探す(L)」という要素も、L―Lドライバーの一部となり、おのずとストーリーが完結する。こうすれば、文句なしのエピソードだった。

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まとめ

ストーリー分析の概要は以上である。一般向けの記事とは言い難いが、それ以前に誰にも伝わらないのではないだろうかという不安もある。自己満足の備忘録と思い込んで不安から逃げることも出来るが、やはり何とか伝わって欲しいという一心で記事を書いているので、誰か一人の役にでも立てればと心の底から思う。

一つだけ言いたいこと。アニメ(に限らず芸術作品全般)の楽しみ方は人それぞれなので、自分に合う楽しみ方を模索して欲しい。本ブログでは、引き続きストーリー分析とレビューを中心に頑張っていきます。

ストーリー分析について①

ストーリー分析について①
次回(ストーリー分析について②)→


管理人は“しからば吟二”氏を崇拝しております。記事のリンク先
【ストーリー解析入門】ドライバー理論
ストーリー解析ブロマガ ストーリー解析について(技術者向け)

本ブログにおける「ストーリー分析」の構想を考えていたところ、極めて興味深い記事を見つけた。紹介した記事の内容は、ストーリー解析の理論についてである。この理論はしからば吟二氏のオリジナルであり、本人によって体系化されたものである。記事では、ストーリーを構造的に解き明かすためのメソッドが、端的に記されている。

本記事の目的について。管理人が記事を書くときに、これから記す以下のものを考えているということを何となく理解していただければ、幸いである。

なお、本記事より前に投稿された「ストーリー分析」の記事は、必ずしも以下で説明する理論に基づいて作成しているわけではない。言わば、発展途上の理論であり、その内容は現在進行形で徐々に変化している。そのため、変更があれば、その都度本記事を編集することになる。

ストーリー分析の理論の学術的価値については、無いに等しい。せめて、「ドライバー理論」の二番煎じにならないよう、オリジナリティを求めていく所存である。

だが、こう宣言しておきながら、結果的にはドライバー理論の偉大さを認識し、導入を検討するという自己矛盾に溢れた状態に管理人は陥っている。私とてドライバー理論を完全に理解しているわけではないが、あまりにも便利なので、適宜取り入れていこうという所存だ。

つまり、ドライバー理論の、ある種改善案(肉付け案)としてストーリー分析の方法論を体系化してみたいという欲求に成り代わったのだ。では、どこに変化を見出すか。具体的な説明は以下に記すが、例えば「要素」の導入は、ストーリーの構造を解き明かすための有益な手段となり得るのではないかという仮説に基づいて、ストーリー分析は作られている。

「要素」からなるストーリーの定義づけもまた管理人のオリジナルであり、ドライバー理論での「ストーリー」とは、定義が異なる。そして、個人的には自分のやり方がしっくりくるので、その感覚を信じてストーリー分析をやるまでである。

用語

ここでは、ストーリー分析の際に用いられる用語の説明を行う。一般的に使用されている用法とは異なることがある。
 

ストーリー分析

ストーリー分析とは、「ストーリー解析」の理論「ドライバー理論」を参考にして管理人が定義した、ストーリーの構造について考える行為、あるいはその理論を意味する。本ブログでは、普通は固有名詞として扱うが、単に「ストーリーの分析」を意味することがある。
 

要素

要素とは、一定の時間間隔を持った、アニメーションまたは音から得られる情報である。

  • 例えば、セリフ、シーン、カット、SEなどは、要素になり得る。


異なる要素を組み合わせて、新たに一つの要素とすることは可能である。

  • 時間的に連続したものでなくとも、組み合わせることは可能である。


分析者が、画面または音から得られる情報を要素であると決定することを、要素を取るという。

要素の取り方は、分析者の自由である。

  • ただし、要素は客観性を重視する

 

ストーリー

ストーリーとは、一定の時間間隔を持った、有限個の要素の集まりある。

  • 任意のストーリーの元(げん)は要素である。


異なるストーリーを組み合わせて、新たに一つのストーリーとすることは可能である。

  • 時間的に連続したものでなくとも、組み合わせることは可能である。


ストーリーに含まれる要素の選択は、分析者の自由である。

  • 任意のストーリーで、元となる要素の順番は一つに定まってなければならない。


ストーリーは分析者によって“解釈”される

  • ストーリーの解釈は分析者によって異なる
  • ゆえに、ストーリーに、客観的な正しい解釈は存在しない

 

解釈

解釈とは、分析者による以下の行為のことを言う。

  • 要素に情動を与える。それが出来ない場合、説明的な要素として処理する。……①
  • 要素を組み合わせてストーリーを形成する。……②
  • ストーリーに情動を与える。このとき、複数の情動を与えても良い。……③
  • ①、②、③それぞれの行為が解釈であり、①と②、②と③、①と②と③、とひっくるめた行為も、解釈と呼ぶことが出来る。


ストーリーに情動が与えられない場合、そのストーリーは破綻する。

  • ストーリーに複数の情動が与えられた場合、その流れが明らかに破綻しているとき、同時にストーリーも破綻する。(これは、③によって起こり得るが、分析者は②の時点で過ちを犯している)
  • 説明的な要素もストーリーに組み込まれる場合がある

 

情動

心理学の用法の他には、一般的に「感情の動き」を意味する単語である。ストーリー分析では一般的な用法を用いる。

情動を与えるとは、対象となる要素やストーリーが、対象の人物にとってどんな感情が引き起こされているかを判断するという行為である。

  • 具体的にいかなる情動を与えるかは、分析者による
  • 判断できない場合、情動を与えることはできない

 

ストーリーの強度

強度とは、そのストーリーがどれくらい自然であるか、論理的であるかなどを示す評価基準である。

  • 強度は、高いほうが望ましい
  • ストーリーの強度は、そのストーリーに与えられた情動の流れの自然さや、その情動の数などによって決まる
  • ストーリーに含まれない要素やストーリーが、そのストーリーの強度を高める場合がある
  • 強度の判定は極めて主観的なものである。

以上で、用語の説明を終える。



ドライバー理論導入の検討

ドライバー理論

ここで、ドライバー理論の登場である。

[ドライバーの]定義:
ドライバーとは、ビジョン(シーン、設定、登場人物)が持つストーリーを展開させる推進力を抽象化した概念である。このような推進力を持つ対象を、それがドライバーを持つ、あるいはドライバーであると言うことにする。

ドライバーはストーリーの起点や終点を決定し、ストーリーの主要部分を構築するためストーリー構築においても非常に重要な概念である。ドライバーにはその性質から次の5つの種類がある。

悪(evil driver)と善(good driver)
愛または夢(love driver)と失敗(fail driver)
提示(presentation driver)

これらのドライバーの頭文字をとってそれぞれE,G,L,F,Pで表わす。ストーリーはこれらのドライバーの組み合わせによって構成される。


要するに、ストーリーに展開される情動の流れを、ドライバーの記号的表現にあてはめて要約することで、そのストーリーが「どんなストーリーか」、「登場人物の役割は何か」を明確にするという目的で作られたのが、ドライバー理論である。

ストーリー分析にこれを取り入れてみたい。

例えば「とある男が優勝したいと思って出場したマラソン大会で、結果的に優勝した」というストーリーがあるとする。

このストーリーを構成する要素には「男がマラソン大会で優勝したいと思っている」「男はマラソン大会で優勝した」といったものが見出せるだろう。

これらに情動を与えていきたい。しかし、仮に一個目の要素に「マラソン大会で優勝したい」という情動を与えるとして、これでは流石に情報量が多い。そもそも、ストーリーそのものを読み解くのではなく、ストーリーの構造を解き明かすことが目的なので、より単純化されるべきである。

そこで極めて有用なのが、ドライバー理論の「ドライバー」である。各種ドライバーの具体的な定義については引用しないが、「マラソン大会で優勝したい」という情動を与えられた要素にはLドライバーを持たせることが出来る(厳密には、ドライバー理論では「要素にドライバーを持たせる」ことはしていないが、ストーリー分析ではこのような扱いをしようと考えている)。そして、「男がマラソン大会で優勝した」という要素には、仮に「優勝できてうれしい」という情動を与えるならばLドライバーを持たせることが出来る。

この場合、このストーリーは、L―Lドライバーを持つ。

異なる場合を考えてみる。例えば、「男はマラソン大会で優勝した」といった要素に情動を与えず、ただの設定や情報の提示として重要視するパターンがある。この場合、このストーリーにはL―Pドライバーを持つだろう。「とある男が優勝したいと思って出場したマラソン大会で、結果的に優勝した」を丸ごと要素とし、Pドライバーを持たせることも可能だ。

さらに、「とある男が優勝したいと思って出場したマラソン大会で、結果的に優勝した。男の母親は彼が優勝する姿を見て、嬉しくて泣いてしまった」と、ストーリーに含まれる要素を付け足してみよう。

この場合の母の視点に注目してみたい。「嬉しくて泣いてしまった」にはLドライバーを持たせることが出来る。問題は、このストーリー全体のドライバーをどうするかだ。L―L―L、L―P―L、P-Lの3通りある。だが、決してどれかが正しいというわけではなく、ドライバーの選択は分析者の独断による。

この作業(解釈)が、まさに「ドライバー理論」でいう”推進力の抽象化”だ。この抽象化が、極めて重要なプロセスなのである。




ここまで長く書き連ねてきたが、ドライバー理論を取り入れるかどうかは未だ検討中である。

次回では、ストーリー分析の実践をしてみたい。使用する資料は、アニメ『ココロ図書館』第2話の予定。

日記 8/27

アニメ映画

新たに見たやつ


で、『ARIA The CREPUSCOLO』の円盤をアキバソフマップで買った。B2タペストリーがデカくていい感じ。

ドラマCDも、映像表現を想像しつつ楽しめるので良き。


夏アニメ

  • BLUE REFLECTION RAY/澪(春アニメから継続)
  • 白い砂のアクアトープ
  • Sonny Boy
  • かげきしょうじょ!!(記事なし)

毎週欠かさず見てるけど、記事のモチベがなかなか上がらんので、ゆっくりやります。記事完走はしたい。

秋アニメ

気になるオリジナルアニメが多いので、どれをやるか検討中。

  • 白い砂のアクアトープ(夏アニメから継続)
  • サクガン
  • 怪物王女
  • takt op.Destiny

他にも色々あるが、記事書きたいのはこの4つ。ただ、明らかにキャパオーバーなのでアクアトープとサクガンになりそう。


一番楽しみなのは、佐藤順一×坪田文の『ワッチャプリマジ!』